失職した弟子たち

◆魚とパン
三年半の間、イエスと共に歩んで来た弟子たち。十字架の死、復活されたとはいえ肉眼では見ることが出来なくなった。
これら別離の不安から今後どのようにして生活するのか?

委託され使命をどう果たして行くのか?更にどのように従って行くのか?等々、弟子たちはまっ暗闇に包まれてしまった。

その次第は、ペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、それに別の二人の弟子たちも一緒にいた。(ヨハネ21:1〜2)
三節に、ペテロは「わたしは漁に行く」と言うと「私たちも一緒に行くと言った」。
彼らは元の漁師の道へ戻ってしまった。彼らは出て行って船に乗り込んだ。しかし、その夜は何も捕れなかった。
夜が明けた頃、イエスは岸辺に立っておられた。ところが弟子たちはそれがイエスであるとはわからなかった。

イエスは言われた。「子たちよ、なにか食べるものが有るか?」と言われた。
彼らは「ありません」と答えた。イエスは言われた「舟の右側に網を打ちなさい、そうすればいくらか捕れるだろう」。そこで網を打ってみるとおびただしい魚の為に、彼らは網を引き上げることが出来なかった。
と4節〜6節に、そして七節には一人の弟子がペテロに”主だ!”と大声で叫んだ。
それを聞いたペテロは海に飛び込んだ。しかし他の弟子たちは魚の入った網を引きながら舟で戻ってきた。
彼らが陸に上がるとそこに炭火があり、その上に”魚とパン”が置かれているのを見た!と14節迄続いている。

◆その意義
”パンも魚も”見えるものから〜見えないものを見る表徴(しるし)として聖書は言っている。
海辺の人々は直接間接に皆、海によって生活を支えられて、日々の生活の場であり、依存している。
イエスの弟子たちも元々漁を業としていた時に召された。

その「海」は聖書は、サタンによって腐敗、堕落させられた”この世”を表しており、魚や多くの海産物、海上交通、気温の調整等々人々に益を与えているが、反面その波はとどまることなく波又波。ときには巨大な津波となって押し寄せる。
その海の中にいきる魚は、塩水の中にいるが塩漬けにならない。その様は、イエスが罪の取り巻く環境の中で33年半生きられたが、罪に汚染されなかった。
故に人と同じ<血>が流れている動物の命。即ち十字架による贖罪の必要を表している。罪と悪が逆巻く「この世」はサタンによって体系化されている、と第一ヨハネ5:19に明記されている。

一方陸地は安定した地盤で人々の住まい、即ち安住の地である。

寒い冬を経て春一番に収穫する大麦でパンは作られ、自然のすべての事物が発芽し、息吹を実感する。之は植物が示す命の様であり、再生、復活の命を表徴している。
それは又十字架上でもう一つの流れである<水>でも見ることができる。

祭りが(仮庵祭、日本で言う新嘗祭)最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
”渇いている人は誰でも、わたしの所に来て飲みなさい。わたしを信じるものは聖書に書いてる通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。”
とヨハネ福音書7:37〜38に記されている。
更に同じヨハネ12:24には、”一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結び。とその様を描いている”

この様に聖書は、必ず相対するものを示唆しており、読めば読むほど、その深さ、髙さ、広さ、に驚くばかりである。

我が魂を愛するイエスよ 波は逆巻きの風吹き荒れて
沈むばかりの この身をまもり 天の港にみちびき給え。