ヨハネ福音書の冒頭のことば。一章一節に。
「初めに<言>があった、<言>は神と共にあった」。この深遠なことばの意味するところは、人の語りだす言葉とは次元が異なり、”初めに”の三文字に深い秘められた意味があるのです。
それはイエスが人として生まれる以前、永遠の過去を指しており紀元前を言う。(回復訳聖書・注解)
又、「言」は神の口から出たことばで、不朽の命がその中にある。即ち、ロゴスと呼ばれる。
この<言>によって天と地、万物が創造された。
創世記一章3.6.9.11.14.20.24.26.29節にその<言>が九回記録されている。
神は人に直接語られた創世時代、人が神の前に罪を犯した結果。神との直接会話は途絶えてしまった。そんな中、神は数奇な運命の元でモーセを選び、エジプト脱出の途次、東エジプトの荒野でBC-1490年。創世記、出エジプト記、レビ記、民教記、申命記の五書が神から直接、口述筆記したと見られている。
その後は、預言者(神の言を預ける)を、新約時代には使徒がその務め(つとめ)に当った。現代に入って之らの人々の書き残された<言>が、聖書として手もとにあるようになった。
◆祈りながら読む元点
著者なる神と交わりながら読む始まりは、アダムから三代目のセツの子、エノスの時代、その時人々はエホバのみ名を呼び始めた。と創世記三章26節に見る。ヘブル語は”呼び出す”を意味し、ちょうど土俵に行事が力士を呼び出すのに似ている。エノスは父セツや祖父アダムの死に始めて直面し、人の命のもろさ、くずれ往く肉の体。たとえ千年近く生きた父や祖父の死に接し、命のむなしさから「叫び」となった声となり。”神のみ名を呼び始めた”
その後、詩篇記者は百篇一節に、”全地よ!エホバに向かって喜びの叫び声をあげよ。”98篇4節・・・大声を発し、喜びを歌へ。騒ぎ声をあげよ!等に見られる。
新約時代に入り、福音を小アジアからギリシヤ、ローマへと拡散した時、反対者たちはクリスチャンを迫害した。殉教したステパノと迫害する側にあったサウロ(改宗後パウロ)共に証のことばがある。使徒行伝七章59~60節と、二章21節に「主のみ名を呼び求める者は皆、救われる」。と明記している。
更にテサロニケの人たちへの手紙(I)5:17には”絶えず祈れ”とすすめている。中世に入ってカトリックの修道僧ブラザー・ローレンスは、料理人としてお皿を洗いながら、料理しながら、祈った生活をすべての時間実行した。人はイエスのみ名を呼び求めるように召された。Call-Called.
◆天から下って来た生きたパン
創世記二章には「食べたら死ぬ」とヨハネ6:51の下の句では「食べるなら永遠に生きる」とまるで逆のことばを読む。
人の体の中に入るものに依って生き、又、死ぬ。死なない迄も中毒症状や不健康になる。
食べるものにより人は運命を決する日々。霊的にも同じことが言える。
聖書は実に興味深々!読めば読むほど。霊で読めば読むほど、深い味わいが得られる。
同じ六章の54節には、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ、わたしは彼を終わりの日に復活させる」。血と肉が分離することは死を表し、ご自身の十字架上で行なわれたことを信じることによって、命と、命の供給をその贖いによって受け取ることが出来る。
●文字は人を殺しますが、霊は命を与える!II、コリント3:6
七十年の信仰生活の経験から・・・聖書研究や教理の研究に偏ると、人を霊的死に追いやる危険が潜む。主のみ名を呼びつつ、讃美しつつ、み言葉を食べることをおすすめします。
歩いている時も、運転する時も、電車で通勤途上であろうと、料理する時も、いつも習慣にする時、言い知れぬ内側に霊の満たしを経験します。
・「みことばの飢饉が来る前に」アモス8:11
オオ主イエス!主イエスよ!ローマ10:13