偶然?必然?

◆五人の夫を変えた女(ヨハネ4:3~42)
イエスはガリラヤへ行くため、一般の通路のヨルダン沿いの渓谷の路ではなく、わざわざ迂回するサマリヤへの道を行かれた。
その途次一つの井戸があり、旅の疲れか坐って休んでおられた。”ちょうどその時”、一人のサマリヤの女が水を汲みに来た。イエスは”わたしに水を飲ませて下さい”と言われた。
イエスは、この女が五人もの夫を変えたことに触れ、この水のように何杯飲んでもすぐ乾く、又飲みたくなる様を例に語り出された。
そこで新約の時代に入った今。最も意義深い神への礼拝の本質について語られた。
●アーカイブ2019年9月.礼拝参照

◆ちょうどその時(マタイ21:1~11)からの引用
イエスと弟子たちがエルサレムに近づき、主の十字架を前にした日曜日。身の危険をもかえりみずゆく途次。主は弟子たちに言われた。
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろば・がつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしの所に引いてきなさい。もし誰かが何か言ったら「主が入用なのです」と言いなさい。すぐ渡してくれる」。と新約聖書に書かれている。
しかし旧約聖書イエスの誕生以前、ゼカリヤ書九章九節、BC520年~518年)にその予言がある。「シオン(エルサレム)の娘よ、大いに喜び叫べ見よ!あなた方の王があなた方に来られる。彼は義であり、救いを担い、卑しくなって、ろばに乗られる。それもろばの子ろばに」・・・
するとエルサレムの住民はどよめいた。と!!

◆水がめのしるし(ルカ22:7~13節から)
イエスは最後の晩さんの準備をする為、ペテロとヨハネに言われた。都に入ると、水がめを運んでいる人があなた達と出会う。その人が入る家までついて行き、そして、家の主人にこう言いなさい。「先生が、弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」。と言っておられます。すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこで用意しておきなさい。
彼らが行ってみると、イエスが言われた通りだったので過越の準備をした。

◆出会いの不思議(使徒行伝8:26~40から)
或る時、弟子ではないピリポは、突然み使いの語りかけで「立って、エルサレムからガザに下る街道を、南に行きなさい」。と言った。そこは寂しい道である。ピリポはすぐ出かけて行った。すると見よ、エチオピアの女王カンダケの高官の宦官は、エルサレムに礼拝に来て帰る途中であった。彼らは馬車に乗ってイザヤ書から読んでいた。ちょうどその時ピリポは追いつき、声をかけ。馬車に一緒に乗り込み、「屠り場に引かれ行く子羊のように・・・」の意味を教えられ、宦官は信じてバプテスマされたと38節にある。

●そのII
十二使徒の一人ペテロ。と、ローマから派遣された百人隊長コルネリオは、異邦人であった。この二人の出会いほど、ユダヤ人と異邦人の関係を知る原点となっている。使徒行伝十章全体で双方の特異な体験によって満たしている。

◆補遺
肉眼では見ることが出来ない神は、絶えず、イスラエルの選民たちの間で、数え切れないほどのことを行われました。
しかし彼らは誰が「それ」を行ったのか、全く知らずに毎日過ごしていました。
或る時は旅人となり、友人や先人の言葉により、環境におきる一切の出来事を通して、更に自然界の様々な現象を通して、神は語っておられたにもかかわらず・・・。
現在、昨日も今日も神は私たちに語りかけておられる。この神の声を認知する霊的直覚が人の霊の中にあるのです。それは人には良心が誰にもあるように。”人の心を見抜くかたは霊の思いが何であるかを知っておられます”。

ローマ書8:28節から