永遠と時間

永遠の過去に終止符を打ち、始めに神は天と地を創造された。(創1:1)

この「ことば」で始まる「聖書」。このことばは「時間」の始まりでもあった。それは宇宙の創造で始まり、「永遠の過去」から「永遠の未来」に至る狭間。いわゆる「時間」の中での物語と言える。

すべてのものを創造された神は、その後、人を創造された。しかし、その最終章50:26節にはイスラエル人であるエジプトの宰相、「ヨセフ」の最後の状態が記されている。「こうしてヨセフは百十歳で死んだ。人々は彼に防腐処置して、エジプトで棺の中に納めた」。の言葉で創世記は結んでいる。

永遠なる神に似せて造られた人。対抗するサタンの誘惑に陥入ったすべての人々。その悲しき運命を背負って生きていく人々。

創世記はすべてのものの始めであり、黙示録ですべてのものが終わっている。

”わたしはアルファでありオメガである”と。

◆結論の書

聖書は首尾一貫した思想で新約で1387頁。

旧約で1927頁(B5判)で初めて読む人でも、古くから親しんできた人にも、特に難解な黙示録は啓示録となり、すべて頁の2/3が注解となっている。これを読むことにより、選民としてのイスラエルと異邦人。物の観方や考え方が変革したことです。

以来これからの地球上に起こるすべての事。すべての地政学的変化とイスラエルの関係。

多くの迫害から逃れ、アメリカに移住した人々。特にユダヤ人の隠れた力。啓示録はより具体的に詳介している。

旧約聖書で予表され、予言された三十九巻のことばは、新約の実現した四福音書。その播かれた種は使徒行伝、書簡、啓示録で成長しつつ繁殖し、刈り取りが大きな一貫した流れとなっている。その主要な項目は

<1>キリスト

<2>召会(神から召し出された人々)

<3>神の行政(エコノミー)又は(永遠のご計画)

◆啓示録(B5判、103ページ)●口語訳B-6判、23ページ

ベールに包まれていた「黙示録」は、天のビジョンにより見せられ「啓示録」と成る。それは大別して三つの項目から成っている。

<A>ご自身の花嫁と成る召会を顧みる。

<B>来臨の方法と、地の裁き、占有される。

<C>花嫁なる召会の完成のしるし

以上。三つの項目の見たことを序論に一章1~20節、現時点の事を二章~三章21節。すでに起きつつ有り、以後起ころうとしていることを九章1節~二十二章5節。結論二十二章6~21節。

宇宙には神による行政があり、意味もなく自然に運行しているのではありません。

旧約時代に飢饉の為にエジプトへ避難。そのまま430年間寄留し、定着してしまったイスラエルの民は、何か・・・現代の地に住む人々と相似している。神は予表としてモーセを起こし、脱出の計画をされた。然し、パロ王はそれを阻止した結果神は十の災いを起こし、民は初めて出エジプト。故郷カナンへと脱出した。

◆補足

天地は国籍、人種の別なく人類共通の生活の場であり、無くてはならない存在である。

地上に存在するあらゆる宗教、自然科学、精神・心理学等々も無関係ではない。

聖書の予言は、ノアの洪水やソドム・ゴモラ等。予兆となっている例を考察し、立ち止まって神の言葉に注視。その声に真剣に耳を傾ける時が来たようだ。

●啓示録には特に<7>の数字が多用されいてる。七つの星、七つの燈火、七つの霊、七つの金の燭台、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢、七つの稲妻等。創造週の7日間に始まり重要な意味のある数字である。

この数字は完全数で神を表し。六は人を表し。サタンの数字として「666」がある(啓13:18)

「目で見たことも無く、耳で聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことも無いものを。神を愛する者たちの為に準えて下さった」。I、コリント2:7

☆最高最大のシェルターは、始めであり、終わりであるキリスト!

●註:引用聖書は日本福音書房注解。記事の一部に啓示録ライフスタディー

聖書の奥義

妻たる者よ。夫たる者よ・・・と教会堂での結婚式に出席した人なら耳にした言葉である。

この奥義は神秘且偉大です。と結び、キリストと召会(神から召し出された者)を指している。と結んでいる。(エペソ5:32)(コリントII,11:2 参照)

◆神のみこころの奥義

万物を創造された神の中に、各時代にわたって”隠されてきた奥義”が、何であるのかを。すべての人に明らかにして、見えるにようなる為です。(エペソ3:9)

それは、神が選んだ民の中へ「神の性質を分け与えること」で、”予知に始まり選び、予定されました”。(エペソ1:4~5)

この神の永遠のご計画の中で、多くの事が起こる前に立てられた、幾つかの基本となる項目の一つです。

天と地には無数の項目があり、その中心は人であり、人は宇宙の中心です。(ゼカリヤ12:1)

神は一群(むれ)の人々によってご自身を表現することを願っておられ、天使や、他の被造物によってではく、一群の人びとによってなのです。(創世記2:21~24)

その端緒となったのがアダムとエバの創造でした。(即ち男と女)

◆雅歌の神秘(旧約聖書)

わずか八章しかないこの書。多くの人々が疑問を抱く訳は。全盛を極めた当時のソロモン王と田舎娘、シュネムの女との恋の物語りで、しかも旧約聖書のほぼ中央に位置している。

ある円熟の域に達したクリスチャンは言いました。聖書の中に何故こんな穢らわしい書が含まれているのか?不思議で訳が分からない、と言いました。

多分ほとんどのクリスチャンも同意するかと思われる雅歌。しかし、決してそうではありません。全聖書は一貫して”宇宙的な夫婦愛の物語り”を人びとに展覧しているからです。

即ち、神と選び出された人びととの結婚において結合され、終わりの無い永遠に於いて神と人とが一つとなり、混ざり合わせれる生活。祝福と喜びに満ちた生活が描かれているのです。

”彼の口づけをもって、私に口づけして下さい。あなたの愛はぶどう酒にまさる”(雅歌1:27)

◆キリストの奥義

「この奥義は偉大(神秘)です。実はキリスト召会(召し出された人々)について言っている」。とエペソ五章32節のことばです。又、イエスがヨハネ十五章の”私はぶどうの木、あなた方はその枝である”。も同義語です。

”キリストと召会は夫婦”の予表です。創世時代最初の人アダムは予表として独身でした。続いて女、エバがアダムの骨の一部から作られました。即ち、エバ(女)は予表としているのは”召会”なのです。

これらの示しているのは【全宇宙的奥義】であり、全聖書66巻に一貫して流れている中心思想なのです。イザヤ書54:5。62:5には”あなたの造り主はあなたの夫であり”。と明記している。

◆神と、選ばれた人々との結婚

摂理のみ手は終始一貫して、旧約時代の歴史の路線を踏襲しつつ歴史を織り成している。

始めは、アダムとエバに生まれたカインは、はからづも最初の殺人を犯してしまった。(創4:10)その故か、”不妊の女”との結婚。アブラハムとサラ。ヤコブとラケル。ザカリヤとエリサベツなどがいる。そしてイサク、ヨセフ、バプテスマのヨハネが生まれ、それぞれの時代で重要な役割を果たしている。

神の絶対主権のもと、天然の人の力によってではなく、神聖な力によって、無から有を生み出す神のみ手により。この世から生み出され、増し加わり召会となりました。

人は皆、神の主権により両親から生まれ、見えない聖なる摂理によって導かれ、神の子となり。

十字架~復活を経られたキリストと最終的に一つの群れとして新エルサレムで永遠に生きるのです。

聖書の最終書、その最終章21章2~3節には、私は又聖なる都、”新エルサレム”が夫のために着飾った”花嫁”のように整えられて、天から出て神から下ってくるのを見た、と言う。

ハレルヤ!

よき羊飼

◆百五十篇からなる詩篇

膨大なる詩集の半数がダビデ王の作詩で、彼の名はその生涯にわたり、神を愛し、賛美しつつ生涯を送った。その中心思想は全知全能の神に依り頼め。が全編を通じてきわ立っており、嬉しい時も恐怖にも、如何なる時にもまっしぐらに、ひたすら神により頼みつつ、喜びの声をあげ、叫んだ。

使徒パウロの言う。”主の中でいつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。”(ピリピ4:4)の、ことばのようにその23篇は、牧者の詩篇と言われ、旧約で最も愛された歌であった。

この世のどの時代に、有名な哲学にも増して、悲傷を慰め、いやす魅力を持つ。

又、あなたとあなたの友人たちが世の終わり迄歌い続けられ、更に王国に至って尚、更に高らかに合唱する一人として加わることを願い祈ります。

◆牧者なる復活のキリスト

詩編23篇(一部文語体)

  主はわが牧者なり、我乏しきことあらじ、

 主は我を緑の牧場に伏させ、

  憩いの水辺に私をともないたもう。

 主はわが魂をいかし、み名の故に我を正し

  き道に導きたもう。

 たとい我死の蔭の谷を歩むとも

  わざわいを恐れじ。

 主は我と共に居ます故、あなたの棒と

  あなたの竿、それが我を慰めたまわん。

  :(棒は保護、竿は訓練の為)。

 私の命のあらん限り、必ず恵みと憐れみが

  我にそい来たらん。我は日々、いつまで

  も主なる神の家に住まん。

 ⁑命のある限り:現代とやがて来たるべき時代

  、それと永遠の時代を指している。

 ⁑死の蔭の谷:人生の諸問題と苦難の時。

◆羊の門(ヨハネ10章1~21)

<罪>は盲目を生み、その結果は<死>です。九章の盲人の癒やしに續きパリサイ人に語られた。

当時の人々は、イエスが救い主であると告白すると、会堂から追放されることを恐れた。

九章に続いて羊(人々)の<囲い>と<門>について語られた。「私は羊の門である。私より前に来たものは皆、盗人であり、強盗である。・・・私は門である。私を通って入るものは救われる。・・・・私は良い羊飼いである。よい羊飼いは羊の為に命を捨てる。・・・私は羊のために命を捨てる」。又「私には、この囲いに入っていない他の羊もいる」。その羊も導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける」。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。(10:1~16)

要約すると、<羊の囲い>は律法の表徴でユダヤ教で、キリストに至る迄の養育係。信仰によって義とされる為に、一時的に保護されていた。故にユダヤ人にとっては囲いから出る門となり、現代の信者は羊として入る門となる。こうして羊たちは、出たり入ったりして緑したたる牧場で養われる。

羊たちは、冬の厳寒期や夜間の暗い時間、囲いの中で守られなければなりません。囲いで保護されていたのは過渡的、一時的であり、緑したたる牧場でそれを享受するのは最終的で、しかも永久に養われます。

ガラテヤ書三章23~25節、四章3~5節。

筆者は四十年間この囲いの中で養われ、保護されてきました。しかし60才の時、この囲いの門から呼び出され、出て来た証人です。

以後30年余り、老後の一般的な生き方としてのボランティア、趣味、旅行等などによってエンジョイする計画でしたが、それらの中途で投げ捨て。羊の囲いから緑の牧場へと導き出された一匹の羊です。

囲いの中での四十年間の数十倍もの、霊的な祝福を毎日味わい、30数年がアッという間に過ぎ去ってしまいました。

一般のクリスチャン生活で、味わうことの出来なかった聖書のみことばなる牧草を、毎日食べ、生ける水で養われている今日、この頃です。

荒野(この世)からの叫び!

生まれてから髪を切らず、ひげも剃らなかった男。30才になり荒布を着たナジル人、バプテスマのヨハネ。ヨルダン川のほとりで大声で叫んだ!

メシヤ(救世主)到来の接近と、過去の罪を悔改めてその備えをする必要。そのしるしとしてバプテスマを多くの人々に施していた。

実は、この事はBC800年も前に旧約時代の預言、イザヤ40章1~8節に記されている。

荒野に叫ぶ者の声がする。(3節)

・・・「エホバの道を清くせよ。

     砂漠で、私たち神の為に、

      大路を真っすぐにせよ」。・・・

これら預言は、バプテスマのヨハネの到来により、新しい創造の門の扉を開くことが予言されているのです。

旧約時代の古い創造(人を含む)から、天地万物を新しく変革の時代到来を意味しています。

故に、現代世界は大変革時代、人類も地球も既にその終盤にあることを警告している。

◆殉教したヨハネ

バプテスマのヨハネは。当時の王ヘロデ、アンテパスに対して、他の兄弟の妻であったヘロディアを妻とした事を指摘し、その不道徳を非難した。(マルコ6:18)その結果はマケラオ城の獄中につながれてしまった。

イエスの露払いとしてヨハネの生涯、殉教と予言の成就は。現代に住む人々にとって見逃せない。決して人ごとでは済まされない事変を含んでいる。改訳聖書、マルコ六章14節から、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。・・・「私が首をはねたヨハネが死人の中から生き返ったのだ」と言った。・・・

そこで王はヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが出来ないでいた。その訳は、ヨハネは義人で聖なる人であることを知って、・・・ところがチャンスが訪れて来た。王は自分の誕生日に重臣や将校など、ガリラヤの有力者たちを招き宴会を開いた。

その席へ王の娘が入って来て踊り、王の食卓へついていた人達を喜ばせた。

王は少女に言った。”何でも欲しい物を私に求めなさい。・・・それをあなたに与えよう”・・・誓った。そこで彼女は出て行き、母親に相談し”何を求めましょうか?”というと母親は「バプテスマのヨハネの首を」と言った。

すると娘は急ぎ王のところへ行き、求めて言った。「バプテスマのヨハネの首を盆に乗せて今すぐ頂きとうございます」と言った。

王は非常に心を痛めたが、誓ったことと、食卓に着いていてる人たちの手前拒むことが出来なかった。

王は直ちに衛兵を遣わし、ヨハネの首をはねた。その首を盆に載せ持ってきて少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

ヨハネの弟子たちはこれらの事を聞くと、行って彼の遺体を引き取り、墓に納めた。

◆千年王国の到来

その叫び声は、メシヤ王国(千年)の到来近し!

その前に、”悔い改めてその備えをせよ”。と同年代に生誕のイエスは、群衆にヨハネについて話し始められた。

あなた方は何を見に荒野へ行ったのか?

風に揺らぐ葦か?・・・柔らかい衣服をまとった人か?・・・預言者を見る為か?

私はあなた方に言う。預言者より、遥かに勝る者。「見よ!私は私の使いをあなた方の面前に遣わし、あなた方の前にある道を備えさせる」。(マラキ書3:1の予言)と書かれているのは、この人のことである。と紹介された。

・・・聞く耳があるものは聞くがよい。とマタイ11:7-15節に言う。

尚、BC八世紀の預言者イザヤは40章(新約に相当)冒頭にこの叫びを予言している。

荒野に叫ぶ者の声がする

 エホバの道を清くせよ。砂漠で私たちのために、

  大路をまっすぐにせよ。

 エホバの息が、その上に吹くからである。

  一つの声が言う。「叫べ」。・・・・・と。

バビロンから出よ!

ユーフラテス、チグリスの大河にうるほされた肥沃な三日月形の地帯。メソポタミヤ古代文明の発祥地である。
世界七不思議の一つ”空中庭園”の跡があり、この地に住む人々がノアの大洪水の後、再び水害から免れようと高層建築を企てた。しかし神の干渉によって中絶してしまった。(詳細:創世記11章参照)その高さ全高98.5m。現代廃虚の跡は虚大な縦穴となっている有名なバベルの塔。
その建設と崩壊の様が創世記11章にわずか1/2ページで記されている。
当時の言語は一つしか無かった。材料は石の代わりにレンガを焼き、初めてレンガ造りの建築であった。その四節「さあ、町と塔を建てて、塔の頂(いただき)を天に届かせよう。そして我々は名を上げて、全地の面に散らされないようにしよう」。と彼らは言った。
しかし「神は下って行って、彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」。
こうして、神はそこから全地の面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
故に、その町の名をバベルと呼ばれた。神はことばを混乱させ、人々を全地に散らされた。

◆バビロンの生いたち
アダムから十代目の人。ノアは世界審判なる大洪水から家族と共に救い出され、三人の息子セム、ハム、ヤペテ。ハムは父の裸を見て外に居た二人の兄弟に告げた。そのハムに”クシ”が生まれ、三代目の”ニムロデ”、彼は最初の勇士となり、また最初の反キリストの予表ともなった。
彼はバビロニヤ、アッスリヤの伝説の高祖であり、権力ある英雄的な存在で、バビロンやアッスリヤの都市を建設者とされている。バベルは人が神に反逆し、偶像を拝み、自己を高く上げることの起源となった。(創11:9)

~これらの原則は。~
”人のものを、神のもの(みことば)と混合させる”ことで、黙示録十七章には大淫婦として描かれている。その結論はエレミヤ25:11~12に明記されている。既に歴史に見られる。「この世(地)全体は荒れ果、荒廃し・・・それを永遠の廃墟とする」又、その歴史的な事実として実例が歴代史下36:6~7。エヅラ1:11に記録されている。

◆二つのバビロン(宗教的バビロン)
大艱難の中で「倒れた!大いなるバビロンは倒れた、怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を飲ませた者!」黙示録14章8節。これは黙17:2~6節にあるローマ・カトリックを指し、ぶどう酒は霊的淫行を言う。
もう一つは物質的バビロンを指し、黙18:1~24に天使は、力強い声で叫んで言う。「倒れた!大いなるバビロンは倒れた!・・・すべての国民は彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たち、商人たちは、極度のぜいたくによって富を築いたからである。」
これらの事は、キリストの再臨の時に起こり、ローマの都が、表徴するこの世が崩壊に至る。
◯註:詳細は福音書房刊、新約聖書啓示録から。
◯特に、(14章と18章二つのバビロンの註解)

◆天からもう一つの叫び(黙示録18章4~9節)
「わたしの民よ!!彼女から離れ去れ<出でよ>」その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ」。
彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。

・・・彼女がおごり高ぶって
ぜいたくに暮らしていたのと、
同じだけの苦しみと悲しみを与えよ。・・・
それ故、一日のうちに、様々な災いが。
死と悲しみと飢えとが彼女を襲う
又、彼女は火で焼き尽くされるであろう。
彼女を裁く神は、力ある主だからである」。

彼女と淫行を犯し、ぜいたくに過ごした地の王たちは彼女が焼かれるのを見て、彼女のことで泣き、嘆き悲しみ・・・
※註。ここで言われている淫行と、そのぶどう酒については霊的解釈

◆神を畏(おそ)れ、その栄光を帰せよ!裁きの時が来た!

婚宴と酒:死と命のしるし

新約聖書のマタイは<王>として。マルコは<奴隷>として。ルカは<人>として、しかしヨハネは<神性のキリスト>について描かれている。
その一つ「兵卒の一人が彼の脇を槍で突き刺すと、直ちにち<血>と<水>が流れ出た」。(ヨハネ19章34節)。
人体には体重の60%がリンパ水として流れている。母体にいる時は水に取り囲まれ、生きるには欠かせない水について七回もヨハネは例示している。

◆命の原則~死を命に変える(ヨハネ2:1~11)
イエスの生育地の近くガリラヤのカナで、弟子たちと共に婚宴に招かれた。結婚は命の継続を、婚宴は人生の楽しみや、夢を象徴する。
招かれた地「カナ」は「葦」を意味し、弱くてもろい人を表している。この地での婚宴のたけなわで、ぶどう酒が尽きてしまった。
そこで裏方は狼狽(ろうばい)し、その時イエスは言われた。「そこにある石の水ガメ(83L)に水を満たしなさい」。と言われ彼らはそれに一杯満たした。「さあそれを汲んで宴会の世話役の所へ持っていきなさい」。召使いたちは運んでいった。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒はどこから来たのか?・・・
彼は頭をかしげ花婿を呼び言った。「誰でも初めに良いぶどう酒をだし、酔が廻った頃に悪いのを出すのに・・・あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」。
イエスはこの最初の「しるし」を行なってその栄光を表わされた。

◆水のしるし(ヨハネ19:34参照)
「兵卒の一人が槍でイエスの脇腹を突き刺すと、直ちに血と水が流れ出た」。”血は贖いのためで水は命を与える”しるしでした。

<I>渇きは死の味わい
地獄にいる金持ちの悲痛な声が聞こえる。口が渇く!「この炎の中で、もだえ苦しんでいます」ルカ16章24節後半。
◇墓参時に水桶。(仏前に)湯呑に水を供える?

<II>イエスと学者(ニコデモ)の対話(ヨハネ3:3)
人は「水」と「霊」から生まれなければ
神の王国へ入ることは出来ない。

<III>ヤコブの井戸で
サマリヤの罪多き女との対話
この水を飲むものは、誰でも決して永遠に渇くことはない。(ヨハネ4:14)

<IV>ベテスダの池の水(ヨハネ5:2)
38年間寝たきりの病人が水の中に入るのを待つ。

<V>シロアムの池で(ヨハネ9章1~40)
生まれつきの盲人のいやしと”霊的視力の盲人”のいやしにも

<VI>祭りの終りの日のイエスの叫び!(ヨハネ7:37~39)
祭りの終わりとは。人が生前おう歌していても、必ずお祭りのように必ず終る。
「誰でも渇くものは、私に来て飲むがよい。私の中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」ヨハネ7章37~39節

◆あなたの婚宴?
創世時代エデンの園を起点とした川々は消失し・・・現代では人の中に「命の水」の川と「知識の水」の川が移り流れている。
人は皆、或る種の婚宴を持つことを願いつつ望み期待する。若人は様々な試験、高校、大学、資格試験に合格しますように。尚それから卒業、昇進等人々が喜ばしいものとして「婚宴」のように考えられる。
然しながら人の健康や金銭、財産等は不慮の災害や病気、戦火によって泡のように消え去る。
キリストの僕(しもべ)として92才の今、重い足を一歩一歩、坂道を登る足取りは生来の命の尽き、口の乾きを実感する。
それらに変えて、七十年余りの信仰生活で、聖書から与えられた乾かない水の流れに養われ、保たれつつ、生きる今。

”鷲のように翼を持って舞い上がる
走っても弱ることなく、歩いていも疲れることはない”イザヤ40:31

二つの認識

認知の仕方

人は外界からの様々な情報を、目で見、耳で聞き、匂いをかぎ、口の中で味わう。即ち、五つの感覚器官がその窓になっている。例えば、人の笑った顔、怒った顔、愛の眼差し、疑いの深い眼、無視された時や関心をもって見られたとき等々。

人はそれぞれの反応をする。近年、高令化が進み認知症になる人々多くなって、”認知”なる語句が一般的に使われているが・・・しかし、人の内側の認知について多くの人々は無関心、いや無知で未経験のためか、知らないで人の生涯を通り過ぎてしまう。

これは実に大きな敗北を招き、損失を知らないうちに。人生を終えてしまっている現実がある。しかし日本には古来からある、死人の口寄せ、とか占いや、確たる背景のないそのたぐいのものがある。

◆霊的な知覚

天と地と、その中にある肯定的な万物を創造された神は。聖書の中で多彩な表現で、しかも詳細に、史実に基づいて書かれている。その中でも代表的な語句。I,ヨハネ二章27節にある。

「あなた方の中には、いつもみ子から注がれた油がありますから、誰からも教えを受ける必要がありません。”この油が万事について教える”」。明記されており、更に20節には”あなた方は聖なる油が注がれているので”(但し、油は内住の霊。でコリントI、15:45。参照)

この油の詳細は出エジプト記30:23~25節にある塗り油で、十字架の死と復活が混合された油で。註・回復訳旧約30:25の注解参照。

ことばや動きによる外側の教えではなく、霊的知覚による内側の声(示唆)で、人の魂の三部分、即ち思いに注入され、感情に、さらに意志に浸透していくのです。即ち”聖潔への道”です。

その過程は丁度イスラエルの民が、エジプトから聖地カナンへの旅路のように徐々に日々進みつつ、幕の内に入り、聖所に進み、至聖所に至る。これこそクリスチャン生活の一本の路。真の天路歴程で天へ至る現実的なハシゴであろう。ヘブル10:22参照。

◆教理と啓示

人なるイエスの復活の後、マグダラのマリヤが最初の出会いで、その対話をよく観察するとイエスは彼女に言われた。「女よ、何故泣いているのか?だれを捜しているのか?」。彼女は墓苑を管理する人だと思い、その話しかけられた人を見てもイエスであるとは気づかなかった。ヨハネ福音書18:11~16。

※エマオへ往く途次(ルカ24:13~16、25~32)

イエスの復活の後、二人の弟子がエマオへの道中、マリヤから聞いた話を語り合っていた時。主は近づき、同じ道を歩きながら彼らと語り合い、教え、聖書全体からご自身についての事柄を説き明かされた。しかし彼らはイエスであるとは気付かなかった。彼らは聖書の教えを理解し、感動し、心の内側では燃える程になった。が依然としてイエスだと分からなかった。

これらの事から人々は、”教理と啓示”は二つの異なったもので、どんなに聖書をよく理解し、暗唱し、キリストの教えは知っていたが、主を知りませんでした。その後一緒に泊まり、食卓に着き、イエスはパンを取り、彼らに渡された”その時”彼らの目が開かれた。その時の光景がさらに詳しく他の福音書にも描写されている。

※七人の漁師(弟子)たちも(ヨハネ21:1~14)

イエスの最も近い弟子であったベテランの漁師たちも、主の復活された話はマリヤから聞いたものの。元の漁師として漁に出た時の状況が劇的に描かれている。彼らは岸に立って話しかける人が誰であるか?・・・しかし突然、彼らはわかりました。それは奥義的方法で知ったのです。このように知ることが内側で見ることと内側で知ることです。

これらが外側の知識と、内側の啓示で知る二つの知る。全く別の知る道なのです。

※予言の成就

エレミヤ31、ヘブル8:10参照

ベブゼベルの正体

聖書を読み進めて行く時、しばしば難解な語句に突き当る。その中でも最たる箇所、マタイ12章43~45節がある。
”汚れた霊が人から出て行って、水の無い場所にうろつき、休む場所を探すが見つからない”「そこで出てきた元の自分の家に戻ろうと言う。そこで入ってみると空き家になっており、掃除され、飾り付けられていた。
そこで再び出て行き、自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て、そこに入って住み着いた」。この前のページにイエスとユダヤ人の論争が、22~32節に見られる。
それは”ベルゼベル”(アラム語で住居の主を意味し、サタンと同義語、悪鬼の長)についての応酬で”目が見えず、口が利けない悪鬼に取りつかれた人が、イエスの所に連れて来られ。見えるようになった。さらに語るようにもなった”。この奇蹟についてであった。(アーカイブ2021年2月も参考に

◆凡例
”目が見えない、口が利けない”。とは外側の目は見えるが、内側の真の霊的視力の無い人を指し。天地創造、その中の万物を統御しておられる真の神を信じない人々。従って、この世に従属し、堕落した人々を指している。然しながら、日本を含む諸国には昔から悪霊や、美化された様々な霊的なものが汎化し、真の神と同一視している。之は、非常に危険が潜んでいる。
その実例として、旧約聖書サムエル記(上)28章には、当時イスラエルの王サウルは自分の立場が不利になった時、悪霊(口寄せ)に王の身分を隠し、変装までしてその女を訪ねている。その後の戦いに敗れ追いつめられて、自分の剣を取り、その上に倒され息絶えた。サムエル記(上)31:4

◆ヨナの逃避行(旧約聖書、小預言書から)
ヨナは異邦の地、隣国の首都ニネベに行って、福音を述べ伝える為に召された。しかし、彼はニネベの逆の方向、ヨッパの港から丁度船が出発間際であったので、乗り出かけてしまった。ところがその途次、海の大荒れに遭い、くじ引きの結果、嵐の原因がヨナに当たり、彼は大荒れの海へ投げ込まれてしまった。
しかし、彼は鯨に飲み込まれ、三日三晩お腹の中で過ごし、初め任命されたニネベの地に吐き出された。この不思議な経験を通して、彼は思いを変え、異邦のニネベの人々、霊的に荒れ廃れた人へ福音を述べ伝えた。その結果、多くの人々が神の福音を受け容れ、悔改めた。
ユダヤ人と異邦人の譬えでイエスは語られた。それは、ユダヤ人は神の選民でありながら、キリストを拒絶し、邪悪な世代を悪鬼にとりつかれた人に喩えられた。彼らは汚れた我が家を掃除し、自分たちを美化し、更に良い物で飾り付け加え、自分たちを満たす道を選びキリストを受け容れなかった。〈但し、少数のレムナント(残りの民)以外〉
故に、イエスの救いや癒やしを受け容れることなく、空しいままに過ごし、昔の状態よりも更に悪くなることをイエスは言われたのです。

◆鬼の昔話
日本の昔話しとして今も受け継がれている伝説。桃太郎の鬼征伐。一寸法師。鬼ごっこ等。鬼にまつわる昔話が現在も受け継がれている。その一つが節分がその典型であろうか?
”福は内、福は内”と唱えながら室内に豆等を巻き、最後に玄関の戸をあけ、大声で”鬼は外”と豆を投げつける風習は全国に残っている。
之らの風習は聖書を霊的に読む時。殆ど何の異和感も無く、聖書の各項目とつながっており、霊的な理解ができるようになる。
・参考。霊魂の切り離し(2020年2月

※荒れ果てた地を復興し盲人の目を開いて、神の永遠の真理を、神聖で霊的な事項を見えるように、又、獄の暗闇から開放し、サタンの王国から神の王国へ開放される。(イザヤ42章から)

※傷んだ葦を折ることなく、煙っている灯芯を消すこともない。とマタイ12:20

現代の偶像

天と地、その中のすべてを創造された唯一の神。地に住む人々の間には多くの神々が存在する。イスラエルの民がエジプト(この世の象徴)で奴隷から、モーセによって脱出。シナイ半島北東部に達し十一カ月間滞在した。
モーセと長老たちは40日40夜の間、山に止どまり神の言葉をまっていた時。この世のものとは思えないラッパの響きを伴う地震、雷鳴の中、山全体が煙に覆われた。
モーセはそんな中で神から石の板に刻まれた十戒を授けられた。
その第一条、第二条は偶像に関するもので、

<一>他の神々を持ってはならない
<二>刻んだ像を造ってはならない。それに伏してはならない。それに仕えてはならない。

とある。ところがモーセが山に登ったまま下りてこなかったので、ふもとで待つ民は待ち切れず、「金の仔牛像」を造り、それを囲んで食べ飲みして、踊り狂っていた。

◆偶像の定義:お客さまは神様だ!
人は目には神を見ることができない故か、目に見える偶像を欲する。それは形を変えた木や石で形造られた様々な像。それに最も身近な金銭、学問、良い企業、より良い車、家や衣服、妻であり夫、子どもたち等、これらすべてが偶像になり得る。すなわち、人が神以上に愛するもの、生活の中で神に置き換わるもの。これらすべてが該当する。
黙示録二章4節には、旧約時代の民が堕落したのと同じことが、新約に入ってもエペソの教会の中にあったことが示唆されている。

二つの素因
(1)神以上に、神の代わりに愛するものに傾倒
(2)異教の習慣に従って歩む
異端と淫行は両輪のように、更に偶像にささげられたものを食べ、性的不道徳は事実上、異教礼拝の一部となり、異教祭礼に於いては当然のこととして認められていた。アルテミスやその類する神々の女祭司たちは公然たる淫売婦であった。(神殿娼婦)

◆この世とのつながり
或る牧師は、この世の社会から、教会の存在を認められることが本分であるかのように、福祉の仂きや社会奉仕に力を注ぐ。
旧約の民の歴史は、偶像に置き換えられ、悲惨な物語とも言える。それは神たる夫から離れて、サタンの妻として選んだ結果として腐敗堕落した悲惨な歴史。そこから回復の曙光を預言者を通して見える。
その端緒となったのが異性とのの姦淫に見る。涙の預言者エレミヤは、随所にそれを描いている。その三章二節。「目を上げて、裸の丘を見よ、あなたの姦淫をしなかった所がどこにあるか」?・・・と連綿とつながっている。
背信の女イスラエルがおこなった事を見たか?
彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで姦淫を犯した。(エレミヤ3:6)

◆歴史は繰り返す
創世記三章に始まった人が神から離れて、サタンの誘惑に陥り(エデン)。古代バビロン~ローマ帝国に至るまで、各時代に亘って人はこの世の君サタンと腐敗縁となり、夫婦として歩んで来た。
その結びつきで最も顕著な兆は$であろうか?個人も国も。今や世界を$が席巻している。一$紙幣の裏、三角形の中の目は何を意味しているのか?表裏一体となって人を誘惑し、支配し、滅亡へと追いやっている。
これらの渦中にある人々を救う計画を聖書は一貫して叫んでいる。
この世の君サタンは、人の三大欲求の中の食欲と性欲を、現代も尚、同じパターンで誘惑している。エデンでの人の選択が失敗した結果は、神との離婚。以後、神と置き換え偶像と結婚。苦悩の悲惨な歴史を繰り返して来た。「あなたの造り主はあなたの夫であり」。とイザヤ54:5
エレミヤは3:12に、「子たちよ(背信の)と呼びかけ神の元へ帰れ」と告げられる。

神の選びと予定

子どもたちがまだ生まれておらず、善も悪も行っていないのに・・・「わたしはヤコブを愛したが、エサウを憎んだ」とローマ九章11節~13節にある。
この言葉に戸惑い、理解に苦しんだ。?しかも名指しに。
しかしエペソ一章4~5節には「天地が創造される前に、神は私たちを愛の中で、み前に聖く傷の無い者になるようにと、キリストの中で私たちを選び」とある。
そこでこの難問を解くために創世記25章の、ヤコブとエサウの出生物語を読み直すと、驚いたことは、この祖父はアブラハムで母はサラ。兄のイシマエルと弟のイサク。そしてイサクとリベカの間に生まれたのが(兄エサウ)。
(弟ヤコブ)何れも兄弟間で争いが起きている。一方は現代も尚続くイスラエル対アラブの争いの源であり、もう一方は<長子権>の取奪の争いに見られる。。
尚又、同じ三十八章26~30節にはペレヅとゼラの双子の出産時、実に滑稽な程長子に生まれる時のエピソードがある。

◆人の選び
最初の人、アダムに対してサタンの<誘惑>は、食欲に関してであった。第二の人、イエスに対しても食欲に関して投げかけた。食べることは、人をわなにかける為に用いる最も有効な手段である。イエスは40日間も断食した後、空腹の極に至った時サタンは来て言った。「神の子なら、これらの石が<パン>になるように命じたらどうだ」。イエスは答え、人はパンのみで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる。と答えられた。第二の誘惑は神殿の屋根の端にイエスを立たせ、「神の子なら、飛び降りてみなさい」。と<奇跡>を行なわせようと誘惑した。がイエスは断った。しかしこの答えは、「あなたの神、主を試してはならない」と書いてある。
第三の誘惑は、高い山に連れて行き、下界に広がるこの世の繁栄する街を眼下して・・・サタンの要求は、「ひれ伏して私を拝むなら、之を皆与えよう」と言った。するとイエスは言われた。サタンよ退け!「あなたの神、主を礼拝し、只、唯一の神のみに仕えよ」と聖書に書かれている。
これら三つの誘惑に悉く失敗したサタンはイエスを離れた。マタイ4:1~11
多くの人々も、この世の荒野で、毎日毎年、生存競争に負けてはならない!暗黒の力に流され、ついに生涯続く。それは個人、企業、国々の間でもひそかに抜けがけ、足を引っ張る。丁度母の胎内の長子権を得るための争いのように。ガラテヤ1:15も参照。

◆この世の君・サタン
罪を犯すものは、悪魔から出た・・・悪魔は最初から罪を犯しているからです。神のみ子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼす為である。(I・ヨハネ3:8)
聖書はこの罪の根源を明らかにしている。天と地を創造された以前に、神に反逆したサタンが存在した。その後に人が創造されエデンの悲劇が起こったのは、余りにも遠く古い起源である故か、最も身近な生と死の現実を当然のこととして受け容れてしまった。しかし人には選択する自由が與えられている。その最高の特権を行使して善悪ではなく、命なる神を選択しなければならない。しかし、この特権さえも神は決して強制されない。

◆狭き門・神への回帰
女が男から出るように、男も女を通して出る。しかし、万物は神から出て神を通して存在し、神に帰する。この世には多くの道がある。曲りくねった道、デコボコの道、狭い山坂の道等あるように。人生の道を選び、歩む最高最善でそれが永遠へ至る道は如何に!
「狭き門から入りなさい。崩壊に至る門は広く、その道は幅広い。そして、そこから入って行く者は多い。命に至る門は狭く、その道は狭いので、それを見出す者は少ない」。(マタイ7:13~14)。
その目的は相続の権益をもつ長子にある故です。ローマ八章28節~30節にその確かなみ言葉に見出す。