変装の神が訪れる!

九十九歳になった信仰の人アブラハム。神に導かれ世の荒海を流木のように漂い、ヘブロン地マムレの樫の木のそばに天幕を張った。
それは真夏の昼時、三人の旅人が立っていた。
彼は急いで走り行き彼らを迎え入れ丁重にもてなした。

◆受胎告知の二様
時にアブラハムは後継となる子が無かった。旅人は”来年の春、わたしは必ず此のところに帰ってくる。その時あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう”。
サラは後ろの天幕の入り口でそれを聞いた。

扨、アブラハムとサラとは年が進み、老人となり、サラは女の月のものが既に止まっていた。サラは心の中で笑って言った。
”わたしは衰え、主人も又老人であるのに私に楽しみなどあり得ようか。”と(創世記18:10〜15)に記している。

ところが新約の冒頭マタイ一章一節、二節と20〜25節には夫となるヨセフに対して、尚又ルカ一章26〜28節には妻となるマリヤへの受胎告知がある。
これら旧新の二つの記述を見る時、両方とも人手に依らないで神が人の中に何かを造り込んで子(霊的子イエス)を生み出すことができると信じる信仰を示唆しています。

◆二人の子の争い
時は逆上り、彼らが住んでいたカナンで飢饉があり摂理によりエジプトへ下った。(摂理の意:人には二つの耳が有るがもう一つの耳は神の声を聞く為にある)。
当時、女奴隷としてエジプトの女ハガルを入れた。
妻サライの夫への申し入れにより、ハガルにアブラムの子を産ませ、その名をイシマエルと呼んだ。その後サライとハガルとの間にトラブルが續き、そのてん末が創世記16章に詳細に見られる。その時アブラムは86歳であった。
イシマエルは野ろばのような人になり、その手はすべての人に逆らい、すべての人は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう。(創世記16:12)結局この問題は正妻サライのことば「このはした女と、その子を追い出しください。この仕女の子は私の子イサクと共に世継ぎとなるべき者ではありません」と。

◆古い人と新しい人
もし誰でもキリストに在るならば(接ぎ木されるならば詳訳聖書)その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った見よ!
すべてが新しくなったのである。((Ⅱコリント5:17)接木された木は、その命と性質に於て一体となること)聖書全体を鳥瞰図的に観る時、この二つの流れは一貫している。
第一のアダム、第二のアダム、律法と福音、十誡と十字架、旧創造と新創造、肉と霊等々非常に奥が深いのに事の重大さを感じさせられる。それは人類にと止まらず、天も地も巻き去り、第一の天と地は過ぎ去り。と(黙示録20:11、21:1)そのスケールは拡大している。
第一の人は土から出て、第二の人は天から出る。最初の人アダムは生きたものと成った。
しかし最後のアダムは命を与える霊となった。と第一コリントへの手紙の15章44節から49節に明記されている。さらに第二コリント5章17節には誰でもキリストに在るならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。と

◆結語。毎日のように報道されているイスラエルとアラブの争いはイサクとイシマエルに端を発し現在も進行しさらにトランプ大統領によって拡大される運びとなるでしょう。