新約聖書のマタイは<王>として。マルコは<奴隷>として。ルカは<人>として、しかしヨハネは<神性のキリスト>について描かれている。
その一つ「兵卒の一人が彼の脇を槍で突き刺すと、直ちにち<血>と<水>が流れ出た」。(ヨハネ19章34節)。
人体には体重の60%がリンパ水として流れている。母体にいる時は水に取り囲まれ、生きるには欠かせない水について七回もヨハネは例示している。
◆命の原則~死を命に変える(ヨハネ2:1~11)
イエスの生育地の近くガリラヤのカナで、弟子たちと共に婚宴に招かれた。結婚は命の継続を、婚宴は人生の楽しみや、夢を象徴する。
招かれた地「カナ」は「葦」を意味し、弱くてもろい人を表している。この地での婚宴のたけなわで、ぶどう酒が尽きてしまった。
そこで裏方は狼狽(ろうばい)し、その時イエスは言われた。「そこにある石の水ガメ(83L)に水を満たしなさい」。と言われ彼らはそれに一杯満たした。「さあそれを汲んで宴会の世話役の所へ持っていきなさい」。召使いたちは運んでいった。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒はどこから来たのか?・・・
彼は頭をかしげ花婿を呼び言った。「誰でも初めに良いぶどう酒をだし、酔が廻った頃に悪いのを出すのに・・・あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」。
イエスはこの最初の「しるし」を行なってその栄光を表わされた。
◆水のしるし(ヨハネ19:34参照)
「兵卒の一人が槍でイエスの脇腹を突き刺すと、直ちに血と水が流れ出た」。”血は贖いのためで水は命を与える”しるしでした。
<I>渇きは死の味わい
地獄にいる金持ちの悲痛な声が聞こえる。口が渇く!「この炎の中で、もだえ苦しんでいます」ルカ16章24節後半。
◇墓参時に水桶。(仏前に)湯呑に水を供える?
<II>イエスと学者(ニコデモ)の対話(ヨハネ3:3)
人は「水」と「霊」から生まれなければ
神の王国へ入ることは出来ない。
<III>ヤコブの井戸で
サマリヤの罪多き女との対話
この水を飲むものは、誰でも決して永遠に渇くことはない。(ヨハネ4:14)
<IV>ベテスダの池の水(ヨハネ5:2)
38年間寝たきりの病人が水の中に入るのを待つ。
<V>シロアムの池で(ヨハネ9章1~40)
生まれつきの盲人のいやしと”霊的視力の盲人”のいやしにも
<VI>祭りの終りの日のイエスの叫び!(ヨハネ7:37~39)
祭りの終わりとは。人が生前おう歌していても、必ずお祭りのように必ず終る。
「誰でも渇くものは、私に来て飲むがよい。私の中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」ヨハネ7章37~39節
◆あなたの婚宴?
創世時代エデンの園を起点とした川々は消失し・・・現代では人の中に「命の水」の川と「知識の水」の川が移り流れている。
人は皆、或る種の婚宴を持つことを願いつつ望み期待する。若人は様々な試験、高校、大学、資格試験に合格しますように。尚それから卒業、昇進等人々が喜ばしいものとして「婚宴」のように考えられる。
然しながら人の健康や金銭、財産等は不慮の災害や病気、戦火によって泡のように消え去る。
キリストの僕(しもべ)として92才の今、重い足を一歩一歩、坂道を登る足取りは生来の命の尽き、口の乾きを実感する。
それらに変えて、七十年余りの信仰生活で、聖書から与えられた乾かない水の流れに養われ、保たれつつ、生きる今。
”鷲のように翼を持って舞い上がる
走っても弱ることなく、歩いていも疲れることはない”イザヤ40:31
