その故は神知り給う!

暗闇は盲目を生み出し、盲目は暗闇を生む。
人は暗闇の中に誕生した。故に”人生”を知らない。”自分自身を知らない”。その上”神も知らない”。他人の罪を犯したのを見るが、”自分が罪人であることを知らない”。
その実例がヨハネ八章1〜11節に見る(アーカイブNo.18姦淫参照)
扨、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰かが罪を犯したからですか?本人ですか、それとも両親ですか」。・・・イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れる為である」。
<暗闇>は死を表徴し、裁きのしるしでもある。
その例が、イスラエルの民がエジプトを脱出する時、先例として出エジプト記10章21〜23節に見られる。
同様に世の終末にも暗闇がある。と、黙示録8章12節に記している。

◆シロアムの池
イエスは盲人に対して、奇妙な行動をされた。それは地面に<唾>をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして「シロアムの池に行って洗いなさい」。と言われた。
そこで彼は行って洗い、目が見えるようになって帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、”これは座って物乞いをしていた人ではないか”と言った。
この癒やしに主要な三つの点は、<泥>と<唾>とそれを<塗る>ことの意義です。
泥は<土>が材料で人が創造された。創世記2:7節にその原点を見る。<唾>もこの節に見られる<命の息>と同じようにイエスの中から出されたものです。
又、言葉は口から出ます。そして<言葉>は<霊>であり<命>であり、<唾>はイエスの口から出る言葉を表徴します。(ヨハネ6:63)。それに<泥>は人の性質を表徴し、神であり人である受肉のイエスの口から出された<言葉>は、世の光としてキリストが盲人の中へ入る唯一の道なのです。
更に、”塗られた泥を洗い流す”行動は。イエスの言われた<言>を信じる外側の”しるし”。でした。即ち<バプテスマ>水の中に沈める。ことです。
しかしバプテスマされた後も泥が残っている限り、霊的な盲目は残る。それは長年で身についた古い文化、倫理観、伝統的な宗教などの泥を日々洗い落とす必要があります。それは<言>を伴う水の洗いによって古いものを新陳代謝的に洗い去り、新しいものに置き替える仂き。
即ち聖化への道です。(エペソ5:26〜27)

◆タルソのサウロ(目からウロコの経験)
この世の高い教育を受け、ユダヤ教の最高議会。サンヒドリンの律法学者であった彼は一過性の盲目を経験した一人でした。
使徒行伝9:45、自叙伝に「サウロ、サウロ」。と呼ぶ声を聞き〜”あなたはどなたですか?”と「わたしはあながた迫害しているイエスである」との声を聞いた経験を書いている。
彼は肉眼は開いていたが盲目にされた経験の後に目は開けられ、霊的な事が見えるようになり、生まれつきの盲人である異邦人の目を開かせる使徒に召された。
使徒行伝九章にその経験を記している。又彼ほど稀有の領域、即ち第三の天からハデス迄の光景を見せられた人はいない。(コリント2。12-1―4.参照。)

 ●今日も夜がやってくる。明日も・・・
   然し、いつか必ず長い闇夜がやってくる。

されど、昇る太陽が高い所から私たちを訪れ、暗闇の中に、又死の影の中に座っている者に輝き、私たちの足を平安の道へ導く。