新約聖書の冒頭に「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ」とある。
そのヤコブは母の胎にいる時から実にユニークな生い立ちの持ち主であった。
それは双子の兄エサウの足のカカトを掴んで生まれでてきたと記されている。(創世記25:26)
生まれながらの性質の中の聡明さ、その手腕、才能など、この世に生を受け生存競争の激しい人生を波乱万丈、栄枯盛衰を経た晩年。
死が迫ったある時、十二人の息子たちを呼び寄せ辞世の言葉を語った。
そしてユダに対して創世記49章8〜12節に、その中の11節には「彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雄ろばの子を、よいぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。」
註:「ろばをつなぐことは」旅が終って目的地に到着したことを示している。
人生の労苦や努力(魂・プシュケ)を停止してゾーエの命なる源キリストの中に安息することを表徴している。
尚、ぶどうの木はゾーエの命に満ちたキリストを予表している。「わたしは真のぶどうの木」とイエスご自身が語りだされた。(ヨハネ15:5)
●「上着をぶどうの血で洗うとは」
人の日常の人生の歩みをキリストの命の豊かさの中に浸すことを意味する。
◆エデンの源泉。消失した二本の川。
一つの川が、この園を潤すためエデンから出ており、そこから別れて四つの源となっていた。そのうちの二つがチグリスと、ユーフラテス川で現存している。
しかし後二本の流れがエデンの園と共に地図上から消えてしまっているのを発見して、私は長い間困惑していました。
創世記2章11節に「第一のもの名はピソンで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は良質で、又、そこにはブドラクとしまめのうを産出した。」
「第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。」
創世記のこの記述は単なる古代歴史の記録ではなく現代に私たちの心の中に流れている。
それは命(ゾーエ)の流れと、知識(善悪)の流れです。
この知識の流れは複雑で善と悪が共にあり、その上、知識が混在した死に至る流れなのです。
命の流れの源泉は、人類の原罪を十字架上で贖罪を果たされた時、ローマ兵士の突き刺した脇腹から流れ出た水なのです。(ヨハネ19:34)
その流れは全聖書の最終の書。
最終章ヨハネ黙示録22章1節に届いている。
「み使いは又、水晶のように輝いている命の水の川を私に見せてくれた。この川は神と子羊とのみ座から出て流れている。」と
◆イエスの叫び <ヨハネ7:37〜39>
ユダヤで三大祭の内最も大きな祝祭、仮庵の祭りの終わりの大いなる日。
イエスは立って叫んで言われた。
「誰でも渇くものは、わたしに来て飲みなさい。私を信じる者は聖書が言っているように、その人の最も内なる所から(霊)生ける水の川が流れ出るようになる。」と
若い頃の友人は言った。祭りは良いが終わった後が寂しい!と
「祭りは」人生の様々な喜怒哀楽を経て必ず訪れてくる体の命。その時は賑やかで、楽しく心が浮き浮きするほんの数日間で終わってしまう、まるで影法師のようだ。
体の命、すべて物質的なものは終わりの日がやってくる。
◆枯れ葉と小さな魚
山の中の小さな川、流されていく枯葉の間に何匹かの小魚が逆上っていく。
ここに命と死が有る!時代の流れの中に大勢の人と共に当てどもなく運ばれていく。しかし、一方で小魚のようにはっきりとした目的を持って時代の流れに逆上って泳ぐ魚。往けども行けども混乱と果てしない不安の中に死の淵へと流されていく人生!・・・時間から永遠に!