聖なる手術室<霊魂の切り離し>

◆人の生い立ち
創世記2:7節には40文字で人の創造記録がある。それは粘土でご自身の姿(フォーム)に形造り、神はご自身の息をその中に吹き入れられた。
その時人は”生きた魂”と成り機能し始めた。更に神の息は”人の霊”として神を認識できるようになり、神と交わりを開始した。即ち”神は霊である”からです。(ヨハネ4:24)

しかしながらエデンに於いて人は、サタンの巧妙な媒体、”死の毒”入り果実をもって食欲をそそり禁じられていたかにも拘わらず取って、食べる致命的な結果を招いてしまった。

それは更に人の霊は魂の支配されるようになり現代に至っている。
故に霊と魂とは混合され、癒着し霊魂は境目がない一つとなってしまった。
それは丁度きれいな水の中に死の墨汁が点滴されたように、コップ全体に浸透していくように。

◆聖霊のみ手
「神の言(人が用いる時は言葉)は生きていて、力があり両刃の剣よりも鋭くて、魂と霊と関節と骨髄とを切り離すまで刺し通して、心の思いとこころざしとを見分けることができる」と。ヘブル4:12に教示している。
この神聖なみ手による手術は人の単なる「教え」ではなく、すべての人が日々の生活の中で実際に経験しなければならない体験なのです。

旧約時代には、人が罪の代償として動物を神に捧げる時、祭壇に縛り付け、祭司はその生贄を鋭利な刃で突き刺し二つに切り裂き(魚を料理するように)。
関節と骨髄とを切り離すまで刺し通しました。
いけにえの内側に有ったものは人の目には隠されていたが眼に見られるようにされ、天からの火が下り(オリンピックの聖火の源)焼き尽くし神に捧げられました。(アーカイブ礼拝)

◆十字架
イエスは言われた「誰でも私についてきたいと思うなら自分(エゴ)を捨て(否み)自分の十字架を負いわたしに従ってきなさい。自分の魂の命を救おうとするものはそれを失い、わたしの為に自分の魂の命を失う者はそれを見出す」。とマタイ16:24〜25に弟子たちに言われた。

十字架は癒着した人の霊と魂とを切り離す手術であり、聖霊はそのオペの執刀医の達人でありミスは断じて無い。

パウロはローマ12:1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」。と明記している。

更に、テサロニケ1手紙5:23節には「あなた方の(霊)と(魂)も、(体)も何一つ欠けたところの無いものにして守り、私たちの主が来られる時、非の打ちどころの無いものにして下さいますように」とすすめている。

◆人の三大欲求(食慾・性欲・睡眠)
人は皆、食慾という果てしない欲求のゆえにそれを追い求め群がっている。又、性欲という根深い力に人生の浮沈を見せられる。これらは金銭欲とからんで罪を生み、罪か熟して死を招く(ヤコブ1:4)結果的に気づかぬ間に魂は、体も、そして霊までもむしばまれて行くエゴ疾患と言える。
多くの人は体の疾患に多くの注意を払っている。しかし根源なる魂と霊とを聖なるみ手にまかせ、神の声を聞きつつ歩む人生を神は望んでおられる。

これらの問題に対してほとんどの宗教は自力で悟りを開き歩む道であり、難行苦行、七転八倒しつつ歩む、又、キリスト教の中でさえ陷り易い禁欲主義(律法から派生する)に知らない裡に同道しているかも知れない。
然し、聖書は死にゆく人の魂は鬼の巣食う宿であり、鬼の言うままに従っている限り救いはないという。(節分の豆撒き、鬼は外、福は内)(魂)の文字は読んで字のごとく”鬼が言う”で構成している。(アーカイブ参照)

●これらの人の様相は、丁度円形レース場を走るドッグが、吊り下げらられている肉塊につられて突っ走るレースに似ている。嗚呼・・・