二つの観方<肉眼と霊眼>

◆故郷ナザレで
イエスは公生涯へお入りになってから、始めて故郷ナザレにお帰りになり、会堂で教えられた。
すると村人たちは驚いて言った。
「これは大工の息子ではないか、この人はこれらの事をどこで得たのだろう?」こうして人々はイエスにつまずいた。
しかし、イエスは言われた。「預言者は、自分の故郷では受け容れられないものだ」。と。(マタイ13:53〜57)

尚又、公生涯の終わり、ゴルゴタで十字架につけられた時、「通りすがりの人たちは、頭を振りつつ言った。他人を救ったが、自分自身を救うことが出来ない・・・自分を救え。今、十字架から降りてこい。」(マルコ15:29〜32)等々。
さんざんののしり、雑言を浴びせた。
このようにして人々は、肉眼ではイエスが誰なのか見ることが出来なかった。

◆目からうろこ
ユダヤ教の律法学者、又、サンヒドリンの議員でもあったサウロは劇的な観方の転換を経験した。
彼は、イエスの弟子たちを迫害する為にダマスコへ向かう途中、突然天からの光が彼の周囲を照らし、地に倒されてしまった。
その時「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。
彼は立ち上がったが、目は開いていたが何も見えなかった。人々は手を引いてダマスコへ連れて行ったが、三日間暗闇の中食べることも飲むこともしなかった。
そこで神は摂理のみ手をもって一人のキリスト者アナニヤを幻の中で召し、サウロと出会わせられた。
アナニヤは彼の上に手を置き「兄弟サウロよ、視力を受け聖霊に満たされる為です。」すると直ちにその目からウロコのようなものが落ちて、地から立ち上がりバプテスマされた。(使徒行伝9:1〜19の要約)
注:後サウロはパウロと改名され、新約聖書29巻の中14の書簡を書き、異邦人(多民族)への福音を伝える使徒となった。

◆霊的五官で認識する
受肉(人となる)されたイエスについて、弟子であったヨハネは証のことばを記している。
「初めからあったもの、私たちが(聞いた)もの、目で(見た)もの、よく見て、手で(触れた)もの、即ち(命の言)について」。(ヨハネⅠ.1:1)

●その例
復活のキリスト(霊の体)の声を聞き、目で見た最初の人は肉親の母でもなく、使徒(弟子たち)でもなく、七つの悪鬼を追い出してもらった”罪の女・マグダラのマリヤ”であった。
次いで復活に対して疑い深かったデトモのトマスについて記している。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、又、この手をその脇腹に入れて見なければ、私は決して信じない」。と。
それに対してイエスは言われた。あなたの指をここに(付けて)・・・私の手を(見)なさい、又、手を伸ばしてわたしの脇腹に(入れなさい)。と、何れも聞いて、見て、触れなさいと言われた。(ヨハネ20章全章に亘っている)

◆霊なる神のことば
聖書はすべて、神の息吹かれたもので、それを食べ、飲み人がその中に取り入れるためであって初めて命(ゾーエ)となる。
肉眼だけで読んでもその知識や教理は増すばかり。しかし霊の眼が開かれて読む時、新しい光景、新鮮な声を聞き、触れ、味わう経験することができる。かくして内側で養われ、日々成長しつつ聖化が日々新陳代謝のように進められる。

・わたしがあなた方に語った言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

◆物の見方は人を変化させる。
 そして全存在に影響を与える。