残された安息日とヨベル

<ヘブル人への手紙>は、五つの”警告”から成っている。その第二の警告に注目したいのです。それは、現代の世相が聖書の言う”荒野の果”を日々感じさせられるからです。
「だから」とか「「こう言う訳で」とかの前置詞から始まっている。四章一節”だから、神の安息にあずかる約束が未だ残されているのに、取り残されてしまったと思われる者が、あなた方の内から出ないように気をつけましょう”。と直接には、週の七日目の安息日(土曜日)を堅く守っている人々。ユダヤ人やメシャニックジュと呼ばれている人々に対して警告を発している。<九節に>、こう言う訳で、安息日の休みが神の民の為にまだ残されているのです。
十二節には結語として、「神の言は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を識別することができるからです。(アーカイブ霊魂の切り離し2020.2月参照)」

◆ヨベル(ペンテコステの年)
安息日が週の七日目に守られたように。<安息の年>は耕作は休作し、種播き、収穫も無かった。これを七年毎に七年間繰り返し49年の翌年、即ち50年目にヨベルの年が来て守られた。
この年には売り渡した土地や負債は帳消しに。奴隷は開放しなければなかった。(レビ記25:8)
これはイスラエルの民が、エジプトで奴隷としての状態に相似しており。パロ王はサタンを、エジプトはこの世を予表し、イスラエルの民は「神の民」を予表している。この事は又、この世に生きるすべての人々も、サタンのとりこ(罪の奴隷)となっていることを示し、真の自由も、安息も無く、毎日あくせく骨折り労苦し、振り回されて真の自由も、安心も得られず、遂に死に至る。
見えざるサタンのとりこであることに気付かず、しかし、人がキリストによって生きるなら、キリストは私たちのヨベルです。この時人の内側は開放を味わう。

◆父の家へ帰される
ヨベルの年の例証として、父の家から離れて放浪の旅に出た弟が、父の家へ戻される例証として、新約にはルカ15章に有名なたとえがある。視点を変えて父の立場から展望すると、ようやく若者に育った子が突然家出したら・・・・・父はどんなにか淋しく、悲しいことか・・・・・しかし或る時、この息子が貧しくなり、まるで廃人のようになり、疲れ果て、帰って来た。
その時の父の喜びはどんなであったか・・・・・。
実は。この放蕩息子は他でもないこの世に住む人々です。彼は所有者なる神を失い、自分自身を奴隷として売り、自由を失いました。
然し。ヨベルの年が来ると、人は元々所有者なる神に戻され、開放されて束縛から自由になるのです。之が「罪の奴隷からの開放(救い)なのです。
●ルカ4:18に。囚われた人たちには開放を、”盲人たちには視力が”(アーカイブ2019.11月参照)回復されることを告げ知らせ、”圧迫されている人たち”を開放して去らせ」これが父なる神の喜びであり旧約のヨベルの実際なのです。
●参照聖句:レビ記25:8~10節、35~41節(安息の年)、イザヤ書49:8、IIコリント6:2
罪の束縛の下に圧迫されていた人たちが、神の救いの開放を享受して、新約のヨベルにあずかる時代(即ち現代を指す)。
※そういう訳で、・・・祭りや新月や安息日について・・・来るべき事柄の影で、その本体はキリスト・・・コロサイ2:16~17

◆報復の日・ハルマゲドンの戦い
かくして、安息日の残された安息は二重の意味をもち、旧約で予表されたことが新約の時代の現代において、多くの予表のように実現しつつハルマゲドンに至る。
神の敵である反キリストと、その追従者にとっては神の報復の日となる。(黙示録19:11~21)
・註:ハルマゲドン
現シリヤのメギドンの山を意味し、(黙16:16)三つの汚れた霊との最終世界戦争となる。
尚。これらの詳細は福音書房刊。
旧・新約聖書の註解とW・リー著 ヨベルからの引用

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA