聖書を読み進めて行く時、しばしば難解な語句に突き当る。その中でも最たる箇所、マタイ12章43~45節がある。
”汚れた霊が人から出て行って、水の無い場所にうろつき、休む場所を探すが見つからない”「そこで出てきた元の自分の家に戻ろうと言う。そこで入ってみると空き家になっており、掃除され、飾り付けられていた。
そこで再び出て行き、自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て、そこに入って住み着いた」。この前のページにイエスとユダヤ人の論争が、22~32節に見られる。
それは”ベルゼベル”(アラム語で住居の主を意味し、サタンと同義語、悪鬼の長)についての応酬で”目が見えず、口が利けない悪鬼に取りつかれた人が、イエスの所に連れて来られ。見えるようになった。さらに語るようにもなった”。この奇蹟についてであった。(アーカイブ2021年2月も参考に)
◆凡例
”目が見えない、口が利けない”。とは外側の目は見えるが、内側の真の霊的視力の無い人を指し。天地創造、その中の万物を統御しておられる真の神を信じない人々。従って、この世に従属し、堕落した人々を指している。然しながら、日本を含む諸国には昔から悪霊や、美化された様々な霊的なものが汎化し、真の神と同一視している。之は、非常に危険が潜んでいる。
その実例として、旧約聖書サムエル記(上)28章には、当時イスラエルの王サウルは自分の立場が不利になった時、悪霊(口寄せ)に王の身分を隠し、変装までしてその女を訪ねている。その後の戦いに敗れ追いつめられて、自分の剣を取り、その上に倒され息絶えた。サムエル記(上)31:4
◆ヨナの逃避行(旧約聖書、小預言書から)
ヨナは異邦の地、隣国の首都ニネベに行って、福音を述べ伝える為に召された。しかし、彼はニネベの逆の方向、ヨッパの港から丁度船が出発間際であったので、乗り出かけてしまった。ところがその途次、海の大荒れに遭い、くじ引きの結果、嵐の原因がヨナに当たり、彼は大荒れの海へ投げ込まれてしまった。
しかし、彼は鯨に飲み込まれ、三日三晩お腹の中で過ごし、初め任命されたニネベの地に吐き出された。この不思議な経験を通して、彼は思いを変え、異邦のニネベの人々、霊的に荒れ廃れた人へ福音を述べ伝えた。その結果、多くの人々が神の福音を受け容れ、悔改めた。
ユダヤ人と異邦人の譬えでイエスは語られた。それは、ユダヤ人は神の選民でありながら、キリストを拒絶し、邪悪な世代を悪鬼にとりつかれた人に喩えられた。彼らは汚れた我が家を掃除し、自分たちを美化し、更に良い物で飾り付け加え、自分たちを満たす道を選びキリストを受け容れなかった。〈但し、少数のレムナント(残りの民)以外〉
故に、イエスの救いや癒やしを受け容れることなく、空しいままに過ごし、昔の状態よりも更に悪くなることをイエスは言われたのです。
◆鬼の昔話
日本の昔話しとして今も受け継がれている伝説。桃太郎の鬼征伐。一寸法師。鬼ごっこ等。鬼にまつわる昔話が現在も受け継がれている。その一つが節分がその典型であろうか?
”福は内、福は内”と唱えながら室内に豆等を巻き、最後に玄関の戸をあけ、大声で”鬼は外”と豆を投げつける風習は全国に残っている。
之らの風習は聖書を霊的に読む時。殆ど何の異和感も無く、聖書の各項目とつながっており、霊的な理解ができるようになる。
・参考。霊魂の切り離し(2020年2月)
※荒れ果てた地を復興し盲人の目を開いて、神の永遠の真理を、神聖で霊的な事項を見えるように、又、獄の暗闇から開放し、サタンの王国から神の王国へ開放される。(イザヤ42章から)
※傷んだ葦を折ることなく、煙っている灯芯を消すこともない。とマタイ12:20