◆認知の仕方
人は外界からの様々な情報を、目で見、耳で聞き、匂いをかぎ、口の中で味わう。即ち、五つの感覚器官がその窓になっている。例えば、人の笑った顔、怒った顔、愛の眼差し、疑いの深い眼、無視された時や関心をもって見られたとき等々。
人はそれぞれの反応をする。近年、高令化が進み認知症になる人々多くなって、”認知”なる語句が一般的に使われているが・・・しかし、人の内側の認知について多くの人々は無関心、いや無知で未経験のためか、知らないで人の生涯を通り過ぎてしまう。
これは実に大きな敗北を招き、損失を知らないうちに。人生を終えてしまっている現実がある。しかし日本には古来からある、死人の口寄せ、とか占いや、確たる背景のないそのたぐいのものがある。
◆霊的な知覚
天と地と、その中にある肯定的な万物を創造された神は。聖書の中で多彩な表現で、しかも詳細に、史実に基づいて書かれている。その中でも代表的な語句。I,ヨハネ二章27節にある。
「あなた方の中には、いつもみ子から注がれた油がありますから、誰からも教えを受ける必要がありません。”この油が万事について教える”」。明記されており、更に20節には”あなた方は聖なる油が注がれているので”(但し、油は内住の霊。でコリントI、15:45。参照)
この油の詳細は出エジプト記30:23~25節にある塗り油で、十字架の死と復活が混合された油で。註・回復訳旧約30:25の注解参照。
ことばや動きによる外側の教えではなく、霊的知覚による内側の声(示唆)で、人の魂の三部分、即ち思いに注入され、感情に、さらに意志に浸透していくのです。即ち”聖潔への道”です。
その過程は丁度イスラエルの民が、エジプトから聖地カナンへの旅路のように徐々に日々進みつつ、幕の内に入り、聖所に進み、至聖所に至る。これこそクリスチャン生活の一本の路。真の天路歴程で天へ至る現実的なハシゴであろう。ヘブル10:22参照。
◆教理と啓示
人なるイエスの復活の後、マグダラのマリヤが最初の出会いで、その対話をよく観察するとイエスは彼女に言われた。「女よ、何故泣いているのか?だれを捜しているのか?」。彼女は墓苑を管理する人だと思い、その話しかけられた人を見てもイエスであるとは気づかなかった。ヨハネ福音書18:11~16。
※エマオへ往く途次(ルカ24:13~16、25~32)
イエスの復活の後、二人の弟子がエマオへの道中、マリヤから聞いた話を語り合っていた時。主は近づき、同じ道を歩きながら彼らと語り合い、教え、聖書全体からご自身についての事柄を説き明かされた。しかし彼らはイエスであるとは気付かなかった。彼らは聖書の教えを理解し、感動し、心の内側では燃える程になった。が依然としてイエスだと分からなかった。
これらの事から人々は、”教理と啓示”は二つの異なったもので、どんなに聖書をよく理解し、暗唱し、キリストの教えは知っていたが、主を知りませんでした。その後一緒に泊まり、食卓に着き、イエスはパンを取り、彼らに渡された”その時”彼らの目が開かれた。その時の光景がさらに詳しく他の福音書にも描写されている。
※七人の漁師(弟子)たちも(ヨハネ21:1~14)
イエスの最も近い弟子であったベテランの漁師たちも、主の復活された話はマリヤから聞いたものの。元の漁師として漁に出た時の状況が劇的に描かれている。彼らは岸に立って話しかける人が誰であるか?・・・しかし突然、彼らはわかりました。それは奥義的方法で知ったのです。このように知ることが内側で見ることと内側で知ることです。
これらが外側の知識と、内側の啓示で知る二つの知る。全く別の知る道なのです。
※予言の成就
エレミヤ31、ヘブル8:10参照