光の中に人が立つ時、影ができる。しかし影は実際の人ではない。
実際はその影の本体であって命がある。更に、宇宙の中のすべての事物、天も太陽も自然界のすべてが人と同様に一過性で永遠ではないと聖書は言う。
参照:黙示録21章1節。
最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。
又、コロサイ2:16。食物や飲み物、祭りや新月や安息日のこと・・・これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにある。と全宇宙に存在する肯定的なものはすべてキリストに帰一する。
従って否定的なもの、見えるものは実体ではなく、一過性で影であると。
或る、自信に満ちた人は言った。見えないものなんか信じる訳いかない。と。
”私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する”とコリントII4:18に言う。
◆幕屋(聖所)
ユダヤ人が最も神聖な場とした幕屋。(モーセからダビデの世代)の詳細が出エジプト記の35章〜40章に記されている。
特記すべきことは「外庭と聖所と至聖所」。「聖所の中の備品の三種」。「至聖所の中の三つのもの」。
これらの三が一体となっていることである。興味深い事物は日本の神社の形態と類似している。更に又、人の体も外から見える部分の肉体、見えない部分の魂と、霊からなっている。
第一コリント人への三章には、神の土地と、建物に関して言及し、九節にあなた方は・・・<神の建物である>。とその材料によって焼失するか、しないか?
かの日に明らかになる。16節に「あなた方は神の<宮>であって、神の霊があなたの中に宿っておられることを、知らないのですか?」と人は皆、肉体という一過性の何れ腐敗し朽ち果てる肉に過ぎない。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安です」とローマ8:6で言う。
ユダヤ人が歴代最も重要としてきた幕屋も、ソロモンの神殿も、その中のすべての什器も現在破壊され、隠されている所以である。
◆分け登る麓の道は異れど、
同じ高嶺の月を見る哉
日本には古来さまざまな道が存在した。それは武士道、茶道、華道等があり、特に相撲道について触れてみたい。
それらは心技一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を重んじる態度を養うとある。
そんな土壌の中に、キリスト教は地中海と死海に挟まれたイスラエルに発祥し、小アジアからヨーロッパ、アメリカを経て大部分は伝えられた為か、西洋の文化の影響を多分に受けた。その故か歪みが生じた部分もあった。(例・クリスマス等)
それに抵抗してか明治の頃、無教会の先駆者内村鑑三等が名を残している。
又、相撲に関しては旧約聖書、創世記32章24〜30節に現在のイスラエルの国名の元の名、ヤコブが神と相撲をとった記録があり驚く。
それは幕で覆われた土俵、塩での清め、行司の衣装、又、階級を表すのに幕内力士、横綱と紙糸等々、昔から鎮守の森、神社の境内で土俵を作り氏子(青年)が相撲を取るのが恒例であったのを想起する。
21世紀の現代、宗教、歴史、伝統、文化の錯綜する世界に、聖書は年間5億冊発行されている。永遠のベストセラー。
高嶺に登る種々雑多の道がある中で、唯一絶対の光に浴していただきたい。
命のみことば 妙に奇し(たえにくすし)
見えざるみ神の 旨(むね)を示し
いのちのみ言葉 くすしきかな。
●見えない神が見える姿(形)になられた!
受肉されたイエスは、父のご計画を果し再び、見えない「その霊となられた」。それは人の体の中に宿る為に。ローマ人への手紙8:9〜11
そして、又「わたしは道である」と言われた。ヨハネ14:6

