”見えるものから見えないものへ”影から実体へ!!

光の中に人が立つ時、影ができる。しかし影は実際の人ではない。
実際はその影の本体であって命がある。更に、宇宙の中のすべての事物、天も太陽も自然界のすべてが人と同様に一過性で永遠ではないと聖書は言う。
参照:黙示録21章1節。

最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。
又、コロサイ2:16。食物や飲み物、祭りや新月や安息日のこと・・・これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにある。と全宇宙に存在する肯定的なものはすべてキリストに帰一する。
従って否定的なもの、見えるものは実体ではなく、一過性で影であると。
或る、自信に満ちた人は言った。見えないものなんか信じる訳いかない。と。

”私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する”とコリントII4:18に言う。

◆幕屋(聖所)
ユダヤ人が最も神聖な場とした幕屋。(モーセからダビデの世代)の詳細が出エジプト記の35章〜40章に記されている。
特記すべきことは「外庭と聖所と至聖所」。「聖所の中の備品の三種」。「至聖所の中の三つのもの」。
これらの三が一体となっていることである。興味深い事物は日本の神社の形態と類似している。更に又、人の体も外から見える部分の肉体、見えない部分の魂と、霊からなっている。
第一コリント人への三章には、神の土地と、建物に関して言及し、九節にあなた方は・・・<神の建物である>。とその材料によって焼失するか、しないか?
かの日に明らかになる。16節に「あなた方は神の<宮>であって、神の霊があなたの中に宿っておられることを、知らないのですか?」と人は皆、肉体という一過性の何れ腐敗し朽ち果てる肉に過ぎない。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安です」とローマ8:6で言う。

ユダヤ人が歴代最も重要としてきた幕屋も、ソロモンの神殿も、その中のすべての什器も現在破壊され、隠されている所以である。

◆分け登る麓の道は異れど、
 同じ高嶺の月を見る哉
日本には古来さまざまな道が存在した。それは武士道、茶道、華道等があり、特に相撲道について触れてみたい。
それらは心技一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を重んじる態度を養うとある。

そんな土壌の中に、キリスト教は地中海と死海に挟まれたイスラエルに発祥し、小アジアからヨーロッパ、アメリカを経て大部分は伝えられた為か、西洋の文化の影響を多分に受けた。その故か歪みが生じた部分もあった。(例・クリスマス等)
それに抵抗してか明治の頃、無教会の先駆者内村鑑三等が名を残している。
又、相撲に関しては旧約聖書、創世記32章24〜30節に現在のイスラエルの国名の元の名、ヤコブが神と相撲をとった記録があり驚く。
それは幕で覆われた土俵、塩での清め、行司の衣装、又、階級を表すのに幕内力士、横綱と紙糸等々、昔から鎮守の森、神社の境内で土俵を作り氏子(青年)が相撲を取るのが恒例であったのを想起する。

21世紀の現代、宗教、歴史、伝統、文化の錯綜する世界に、聖書は年間5億冊発行されている。永遠のベストセラー。

高嶺に登る種々雑多の道がある中で、唯一絶対の光に浴していただきたい。

命のみことば 妙に奇し(たえにくすし)
  見えざるみ神の 旨(むね)を示し
    いのちのみ言葉 くすしきかな。

●見えない神が見える姿(形)になられた!
受肉されたイエスは、父のご計画を果し再び、見えない「その霊となられた」。それは人の体の中に宿る為に。ローマ人への手紙8:9〜11
そして、又「わたしは道である」と言われた。ヨハネ14:6

失職した弟子たち

◆魚とパン
三年半の間、イエスと共に歩んで来た弟子たち。十字架の死、復活されたとはいえ肉眼では見ることが出来なくなった。
これら別離の不安から今後どのようにして生活するのか?

委託され使命をどう果たして行くのか?更にどのように従って行くのか?等々、弟子たちはまっ暗闇に包まれてしまった。

その次第は、ペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、それに別の二人の弟子たちも一緒にいた。(ヨハネ21:1〜2)
三節に、ペテロは「わたしは漁に行く」と言うと「私たちも一緒に行くと言った」。
彼らは元の漁師の道へ戻ってしまった。彼らは出て行って船に乗り込んだ。しかし、その夜は何も捕れなかった。
夜が明けた頃、イエスは岸辺に立っておられた。ところが弟子たちはそれがイエスであるとはわからなかった。

イエスは言われた。「子たちよ、なにか食べるものが有るか?」と言われた。
彼らは「ありません」と答えた。イエスは言われた「舟の右側に網を打ちなさい、そうすればいくらか捕れるだろう」。そこで網を打ってみるとおびただしい魚の為に、彼らは網を引き上げることが出来なかった。
と4節〜6節に、そして七節には一人の弟子がペテロに”主だ!”と大声で叫んだ。
それを聞いたペテロは海に飛び込んだ。しかし他の弟子たちは魚の入った網を引きながら舟で戻ってきた。
彼らが陸に上がるとそこに炭火があり、その上に”魚とパン”が置かれているのを見た!と14節迄続いている。

◆その意義
”パンも魚も”見えるものから〜見えないものを見る表徴(しるし)として聖書は言っている。
海辺の人々は直接間接に皆、海によって生活を支えられて、日々の生活の場であり、依存している。
イエスの弟子たちも元々漁を業としていた時に召された。

その「海」は聖書は、サタンによって腐敗、堕落させられた”この世”を表しており、魚や多くの海産物、海上交通、気温の調整等々人々に益を与えているが、反面その波はとどまることなく波又波。ときには巨大な津波となって押し寄せる。
その海の中にいきる魚は、塩水の中にいるが塩漬けにならない。その様は、イエスが罪の取り巻く環境の中で33年半生きられたが、罪に汚染されなかった。
故に人と同じ<血>が流れている動物の命。即ち十字架による贖罪の必要を表している。罪と悪が逆巻く「この世」はサタンによって体系化されている、と第一ヨハネ5:19に明記されている。

一方陸地は安定した地盤で人々の住まい、即ち安住の地である。

寒い冬を経て春一番に収穫する大麦でパンは作られ、自然のすべての事物が発芽し、息吹を実感する。之は植物が示す命の様であり、再生、復活の命を表徴している。
それは又十字架上でもう一つの流れである<水>でも見ることができる。

祭りが(仮庵祭、日本で言う新嘗祭)最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
”渇いている人は誰でも、わたしの所に来て飲みなさい。わたしを信じるものは聖書に書いてる通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。”
とヨハネ福音書7:37〜38に記されている。
更に同じヨハネ12:24には、”一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結び。とその様を描いている”

この様に聖書は、必ず相対するものを示唆しており、読めば読むほど、その深さ、髙さ、広さ、に驚くばかりである。

我が魂を愛するイエスよ 波は逆巻きの風吹き荒れて
沈むばかりの この身をまもり 天の港にみちびき給え。

聖なる手術室<霊魂の切り離し>

◆人の生い立ち
創世記2:7節には40文字で人の創造記録がある。それは粘土でご自身の姿(フォーム)に形造り、神はご自身の息をその中に吹き入れられた。
その時人は”生きた魂”と成り機能し始めた。更に神の息は”人の霊”として神を認識できるようになり、神と交わりを開始した。即ち”神は霊である”からです。(ヨハネ4:24)

しかしながらエデンに於いて人は、サタンの巧妙な媒体、”死の毒”入り果実をもって食欲をそそり禁じられていたかにも拘わらず取って、食べる致命的な結果を招いてしまった。

それは更に人の霊は魂の支配されるようになり現代に至っている。
故に霊と魂とは混合され、癒着し霊魂は境目がない一つとなってしまった。
それは丁度きれいな水の中に死の墨汁が点滴されたように、コップ全体に浸透していくように。

◆聖霊のみ手
「神の言(人が用いる時は言葉)は生きていて、力があり両刃の剣よりも鋭くて、魂と霊と関節と骨髄とを切り離すまで刺し通して、心の思いとこころざしとを見分けることができる」と。ヘブル4:12に教示している。
この神聖なみ手による手術は人の単なる「教え」ではなく、すべての人が日々の生活の中で実際に経験しなければならない体験なのです。

旧約時代には、人が罪の代償として動物を神に捧げる時、祭壇に縛り付け、祭司はその生贄を鋭利な刃で突き刺し二つに切り裂き(魚を料理するように)。
関節と骨髄とを切り離すまで刺し通しました。
いけにえの内側に有ったものは人の目には隠されていたが眼に見られるようにされ、天からの火が下り(オリンピックの聖火の源)焼き尽くし神に捧げられました。(アーカイブ礼拝)

◆十字架
イエスは言われた「誰でも私についてきたいと思うなら自分(エゴ)を捨て(否み)自分の十字架を負いわたしに従ってきなさい。自分の魂の命を救おうとするものはそれを失い、わたしの為に自分の魂の命を失う者はそれを見出す」。とマタイ16:24〜25に弟子たちに言われた。

十字架は癒着した人の霊と魂とを切り離す手術であり、聖霊はそのオペの執刀医の達人でありミスは断じて無い。

パウロはローマ12:1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」。と明記している。

更に、テサロニケ1手紙5:23節には「あなた方の(霊)と(魂)も、(体)も何一つ欠けたところの無いものにして守り、私たちの主が来られる時、非の打ちどころの無いものにして下さいますように」とすすめている。

◆人の三大欲求(食慾・性欲・睡眠)
人は皆、食慾という果てしない欲求のゆえにそれを追い求め群がっている。又、性欲という根深い力に人生の浮沈を見せられる。これらは金銭欲とからんで罪を生み、罪か熟して死を招く(ヤコブ1:4)結果的に気づかぬ間に魂は、体も、そして霊までもむしばまれて行くエゴ疾患と言える。
多くの人は体の疾患に多くの注意を払っている。しかし根源なる魂と霊とを聖なるみ手にまかせ、神の声を聞きつつ歩む人生を神は望んでおられる。

これらの問題に対してほとんどの宗教は自力で悟りを開き歩む道であり、難行苦行、七転八倒しつつ歩む、又、キリスト教の中でさえ陷り易い禁欲主義(律法から派生する)に知らない裡に同道しているかも知れない。
然し、聖書は死にゆく人の魂は鬼の巣食う宿であり、鬼の言うままに従っている限り救いはないという。(節分の豆撒き、鬼は外、福は内)(魂)の文字は読んで字のごとく”鬼が言う”で構成している。(アーカイブ参照)

●これらの人の様相は、丁度円形レース場を走るドッグが、吊り下げらられている肉塊につられて突っ走るレースに似ている。嗚呼・・・

神聖なる神の自己紹介

神は、イスラエルの民をエジプトで奴隷状態から救い出すため。モーセを召命された。
その時(出エジプト記3:15節)に「わたしは在る」である。
他の訳は「わたしは有って在る者」。と即ち永遠に何時までも存在する神ご自身の名である。
尚、コリント人への手紙の宛名には(在る神の教会)と(I)1:2、(II)1:1。更に黙示録二章〜三章に亘って、七つの教会への宛名には。
エペソに在る教会、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある教会とそれぞれ明記している。
この在るこそ神の存在の根拠であり、その名となっている。
在るの相対語は無であることに若き詩人八木重吉の霊性に流石と感じさせる。

●我キリストに在りと思いし日より
キリスト我にありと思う日までの遠かりしことよ(肺結核で20才にて没)

◆姦淫の女とイエス(ヨハネ八章から)
「その顔立ちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていた。・・・彼には私たちの見るべき姿が無く、威厳も無く、慕うべき美しさも無い」。とイザヤ書52:14と53:2に見る。
しかし現代に見られる聖画にはその顔立ちや容姿は、まるで程遠いのは何を物語るか。

そのイエスは公生涯に入られて間もなく、宮に坐して人々に教えられた。そこに律法学者やパリサイ派の人が姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきて真ん中に立たせイエスに言った。
「先生この女は姦通の現場で捕えられました、モーセは律法の中でそのような女は石打で殺せと命じています。ところであなたはどうお考えですか?」・・・彼らはイエスを訴える口実を得るためにこの難題をぶつけた。

イエスは指で地面に何かを書きしばらくして言われた。
「あなた方の中で罪を犯したことの無い者が、まずこの女に石を投げなさい」。と・・・八章の長い最終の句、58節、「するとイエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から(わたしは在る)」
するとユダヤ人たちは(石)を取り上げイエスに投げつけようとした。(参照〜誰でも情欲を抱いて・・・マタイ5:28併読)
・註:罪の主要な三要素は姦淫、殺人、うそであり、神から生まれたのが正常な子、サタンから生まれたのが姦淫の子

◆空っぽの墓(マタイ28:1〜6から)
週の始めの日、マリヤは夜が明けやらぬとき墓に行った。すると大きな地震が起こった。
それは主の使いが降りてきて<石>を脇に転がし、その上に坐ったからである。その姿は稲妻のように輝きその衣は雪のように真っ白であった。彼は言った、イエスはもう此処には居られない蘇られた。
さあ、イエスが納められていた場所をご覧なさい・・・九節に”すると見よイエスが彼女たちに出会い「平安あれ」と言われた。彼女たちはイエスの足を抱き、ひれ伏した”
十三節にはユダヤ人たち祭司長たち長老たちを集めて協議した後、多額の金を兵卒たちに与えて言った。
夜、弟子たちがやってきて我々の眠っている間に彼を盗んだと言え。
万一この事が総督の耳に入っても、あなた方に迷惑をかからないようにする。
彼らは金を受け取り教えられた通りにした。

◆明けましておめでとう!
元旦は新しい年の始まりであり、西暦はアンノ・ドミノ即ちADはキリストの誕生を起算点としている。”神は光あれ”と言われると光があった。これは天地創造の時の神の言葉。
創世記一章二節にある。人の子の誕生も然り、それは羊水で囲まれた子宮(何故宮なのか?)の中から破水し生まれ出る赤ちゃん、何れも暗闇と水、そして光、イエスの”死と復活”がその原点に存在する。

附記:日本の伊勢を始め宮崎県、丹後や信濃の各地にまつわる神話伝説には天照大御神が祭神で、岩戸にお隠れになった話は古来から在る。
天の児屋の命(祭司)は岩の中にお隠れになった神に出てきて頂く為に唱えたと伝えられる、ヒー、フー、ミー、ヨー、イー、ムー、ナ、ヤー、ココノ、トー、はヘブル語が原点に在ることは確かなようだ。カゴメ・コゴメのわらべ歌と共に。

ユダヤ人と異邦人

聖書の冒頭、創造週第四日目「それは徴(しるし)の為」季節のため、日の為、年の為、神は二つの光体を作り、大きい方を昼、小さい方は夜、又、星を造られた。(創世記1:14〜16)と

人類の始祖ユダヤ人、それは又、イスラエルと神から改名させられたアブラハムの息子ヤコブ。民数記24章17節に「一つの星がヤコブから出てきて「王の杖」がイスラエルから起こる」と予言されている。
尚又。小預言書ミカ書5章2節には「イスラエルを治める者があなたの内から私のために出る」と言っている。
しかしながら、四千年の歴史を持つユダヤ人、神が約束された乳と蜜の流れる良き地に定着したにもかかわらず、部族間の数々の争い、南と北の分裂、さらにローマ軍に占拠され、世界の国々へ離散、流浪の民となった。

◆三人の異邦人、星占術者
東方の三人の星占術者たちは、異様に輝く星を見出した。この異邦の異教の人々はその星に導かれてエルサレムに着いた時。ふと「王の杖」なる言葉を預言書から思い出し、当時のヘロデ王の所へと、さらに詳しい情報を得るためか立ち寄って王に尋ねた。
”ユダヤ人の王としてお生まれになったお方はどこにおられますか?”と。
「するとこれを聞いたヘロデ王は”不安を抱いた”。エルサレムの人々も同じように当惑したとマタイは二章三節に記している」。

ヘロデ王は自分の立場が脅かされる不安からその心境には納得できるものの、エルサレムの人々も何故当惑したのか測り知れない。いにしえからの待望の星、メシヤの到来をなぜ彼らは戸惑ったのか?

結果的に王の命令により、ベッレヘム近郊の二才以下の男の子を一人残らず殺させた。(マタイ2:16〜18)
一方神は、夢でヨセフに告げた。
”起きて子供と母親を連れてエジプトへ逃げよ”と2章13節〜15節にある。これら二つの事変は、ヘロデの元を訪ねた異邦人が起因している事実を想うと。東方の三人が星から目を離すことなく、地を見ないで、寄り道しないで歩んでいたなら、ベッレヘムに直接到着していたであろうことが想定できる。之は現代の私たちに多くの教訓を与えてくれる。

◆皮肉な現実
「一つの星がヤコブから出て来て」この輝かしい予言された当のヤコブの子孫は、華麗極まるエルサレムの神殿で奉仕する祭司、律法学者。神の選民ユダヤ人の誰一人その星を見いだせなかった。
彼らは、キリストがどこに生まれるか、聖書の文字を読み知識として良く知っていた筈が・・・皮肉にも異教の人々が星を通して生けるビジョンを受け、距離的には遥かに遠く離れたベッレヘムに正確に導かれた現実を直視しなければならない。(マタイ2:9〜10)

◆明けの明星(啓示録22:16)
キリストは最初に来られたときは公に星として現れました。しかし二度目の来臨の時は”明けの明星”として来られる。
未だ暗闇が明けやらぬ直前に輝く星として。目を覚まして待ち望んでいる人たちは見る!ペテロ第二の手紙1:19節には「夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇るまで、暗い所に輝く灯火として、よくよく心に止めておきなさい」。と
これらの教訓から学ぶべきことは、教会に何年も通っていても。聖書を読み知識、教理を知っていても、伝統的教会、神学者、聖職者に従属していても、ユダヤ人のように明けの明星を見ないかもしれない。
それは夜明け前の最も暗い時(大患難の直前)に目を覚ましている勝利者たちに密かに現れる故です。
 ・註:勝利者について福音書房刊、回復訳聖書、全ページ解説付に詳述。

私はダビデの根、子孫であり、輝く明けの明星である。(黙示録22:16)今日、星はその霊と共にあり、花嫁と共にあり。その霊のあるところに星も有り、花嫁、即ち召会のあるところにその星もある。

二つの観方<肉眼と霊眼>

◆故郷ナザレで
イエスは公生涯へお入りになってから、始めて故郷ナザレにお帰りになり、会堂で教えられた。
すると村人たちは驚いて言った。
「これは大工の息子ではないか、この人はこれらの事をどこで得たのだろう?」こうして人々はイエスにつまずいた。
しかし、イエスは言われた。「預言者は、自分の故郷では受け容れられないものだ」。と。(マタイ13:53〜57)

尚又、公生涯の終わり、ゴルゴタで十字架につけられた時、「通りすがりの人たちは、頭を振りつつ言った。他人を救ったが、自分自身を救うことが出来ない・・・自分を救え。今、十字架から降りてこい。」(マルコ15:29〜32)等々。
さんざんののしり、雑言を浴びせた。
このようにして人々は、肉眼ではイエスが誰なのか見ることが出来なかった。

◆目からうろこ
ユダヤ教の律法学者、又、サンヒドリンの議員でもあったサウロは劇的な観方の転換を経験した。
彼は、イエスの弟子たちを迫害する為にダマスコへ向かう途中、突然天からの光が彼の周囲を照らし、地に倒されてしまった。
その時「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。
彼は立ち上がったが、目は開いていたが何も見えなかった。人々は手を引いてダマスコへ連れて行ったが、三日間暗闇の中食べることも飲むこともしなかった。
そこで神は摂理のみ手をもって一人のキリスト者アナニヤを幻の中で召し、サウロと出会わせられた。
アナニヤは彼の上に手を置き「兄弟サウロよ、視力を受け聖霊に満たされる為です。」すると直ちにその目からウロコのようなものが落ちて、地から立ち上がりバプテスマされた。(使徒行伝9:1〜19の要約)
注:後サウロはパウロと改名され、新約聖書29巻の中14の書簡を書き、異邦人(多民族)への福音を伝える使徒となった。

◆霊的五官で認識する
受肉(人となる)されたイエスについて、弟子であったヨハネは証のことばを記している。
「初めからあったもの、私たちが(聞いた)もの、目で(見た)もの、よく見て、手で(触れた)もの、即ち(命の言)について」。(ヨハネⅠ.1:1)

●その例
復活のキリスト(霊の体)の声を聞き、目で見た最初の人は肉親の母でもなく、使徒(弟子たち)でもなく、七つの悪鬼を追い出してもらった”罪の女・マグダラのマリヤ”であった。
次いで復活に対して疑い深かったデトモのトマスについて記している。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、又、この手をその脇腹に入れて見なければ、私は決して信じない」。と。
それに対してイエスは言われた。あなたの指をここに(付けて)・・・私の手を(見)なさい、又、手を伸ばしてわたしの脇腹に(入れなさい)。と、何れも聞いて、見て、触れなさいと言われた。(ヨハネ20章全章に亘っている)

◆霊なる神のことば
聖書はすべて、神の息吹かれたもので、それを食べ、飲み人がその中に取り入れるためであって初めて命(ゾーエ)となる。
肉眼だけで読んでもその知識や教理は増すばかり。しかし霊の眼が開かれて読む時、新しい光景、新鮮な声を聞き、触れ、味わう経験することができる。かくして内側で養われ、日々成長しつつ聖化が日々新陳代謝のように進められる。

・わたしがあなた方に語った言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

◆物の見方は人を変化させる。
 そして全存在に影響を与える。

老いた赤ちゃん

あなた方の耳が鈍くなっているので・・・再び神の言葉の初歩を教えて貰わねばならず。
又、固い食物の代わりに乳を必要とする始末だからです。(ヘブル5:11〜12)と。
ユダヤ教から転向したクリスチャンに対してパウロは警告している。

これらの未熟児の特徴は、争い、怒り、ねたみ、分裂分派等。現代の偶像(S・S・G)への際限なき興味、関心が強く霊的成長を妨げている。
●注:S:スクリーン、ステージ S:スポーツ G:際限のないグルメ指向。

又、コリント人に対して、自分の豊かな知識を知恵を誇りとしていた。しかし、肉に属する信者は多くの教理を知り、霊的真理を人に与えることさえ出来ても自分自身は<霊的>ではなかった。(コリントI、1:10〜13 同2:6〜16)

この様な信者に対して「神は愛する者たちのために備えてくださった。それは・・・目が見たことも無く、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを」(コリントI、2:9〜10)

◆死んだら天国へ
前述のような流れの中で、クリスチャンに限らず、多くの日本人も”死んだら天国へ。とか、天から見守ってくれる”等の考えが普辺化してきた。しかし”人が避けることのできない死は”、自動的に生来持っている自我、仏教では108もある煩悩、聖書では生まれながらの性質、(肉)は何一つ解決しないまま死に至る。
”死は全て終わり”との安易な都合の良い考えが定着しつつある今、絶対的な権威である神の言葉は一つの明確な示唆を与えてくれる。

◆十人の乙女の譬えの奥義(マタイ25:1〜13)
死後のクリスチャンが、王国に於いて婚宴に招かれていたが半数の五人が門を閉ざされて入れなかった。その致命的な言葉は、自分の器の中(魂の三部分、即ち、知、情、意)に油を十分に蓄えていたか、否かの問題なのです。
十人は皆灯火は持っていても”イザ花婿だ!”と叫ぶ声を聞く時、生前、時間の中でその油を準備し的確に着実に為されてたかが決め手となるのです。

アンドリュー・マーレーは、(キリストのみ霊)の中で言っている。
”神の霊に於いて、人は内住の神を持ちます。神の力が人の体の中に内住され”み父”が意図され、”み子”が得られたものを”聖霊”のとり成しと活動により造り込まれるのです”と。

◆完全な救いの三段階
第一段階。<人の霊の救い>。
すべての人の中にある、生来の罪の性質のために贖罪を果たされたイエスを信じるものに与えられる客観的救い。

第二段階。<魂の三部分、知、情、意>
バプテスマされても、人の魂は先祖伝来の罪業によって汚染されたままで、嘘や憎しみ、妬み怨み等、前述のような罪の胚芽が潜んだままこれらを悉く拭い去らせなければならない。これこそ生きている間に果たすべき最重要課題である。
そこで第一段階で入って来られた聖霊は、人の霊の中で輝く灯火、神ご自身です。(Iヨハネ1:5)

この光が輝くために油としての神の霊は、芯として人の霊に浸透し、共に燃えなければならない。怠らず励み、霊に燃えて主に仕えなさい。(ローマ12:11)

「あなた方の内にある光が、あなたを暗闇にならないように用心しなさい」。(ルカ11:35)これが人の内側で完成されなければならない魂の造り変え。即ち主観的で内側の救いです。

第三段階。(人の体の変ぼう)
二つの段階を経て始めて「聖別」聖化が完成する。
「そして平和の神ご自身が、・・・私たちの主イエスキリストの来臨のときに責められるところの無い者にして下さいますように」(テサロニケⅠ、5:23)
”主の栄光を見つめつつ、・・・栄光から栄光へと主と同じかたちへと造り変えられつつ・・・それはまさに霊なる主からです”(Ⅱコリント3:18)
●朝ごとに、剃る毎に、思う。根深いエゴのヒゲ

礼拝 Worsip Servis

古代から人は、その対象はマチマチながら、何かを崇め、拝みたい、との願望が内側にあった。
その対象となる神、佛、偉人、賢人、又、龍、蛇、狐等の動物や自然の事物等多岐に亘っている。
聖書にはこれらの人の内側から起こる願望の原点を掲示している。

「エホバの言葉の託宣、天を延べ、地の基を据え<人の霊>をその中に形造られた」。とゼカリヤ12の1に明記する。

人は一番奥の部分に霊があるので、何かよくわからないが超人的な対象に礼拝する欲求があり、文明、非文明を問わず存在する。
故に神社では二礼、二拍、鈴を鳴らす、賽銭等々。お寺では合掌し頭を下げて拝む、イスラム教は祈る方角、時間、回数ひれ伏す等々。キリスト教に於いても同様に昔からの伝統、形式化し儀式化してしまっている。

これらに共通しているのは、昔から受け継がれているが、礼拝する者が、その本質を正しく理解して参加しているか否かの問題がある。
特に祈りに関しては、自分の健康や結婚、受験、商売繁盛などの願望を主としたものが大半ではなかろうか。
神が望んでおられる礼拝とは何であるか?
最も古い聖書を紐解いてみたいのです。

◆アブラハム(父)〜(息子)イサクの献身
信仰の父アブラハムは、神による命の受胎(変装の神)参照。に依って与えられたイサクが、青年に達した或る日、神はアブラハムにその一人子イサクを燔祭として捧げなさい、と言われた。
アブラハムは朝早く起きて、ろばに鞍を置き、二人の若者と息子イサクを連れ、ささげ物の為の薪を割り、立って、神の告げられた場所(モリヤの山、現在のシオン)へ出かけた。

彼らは神の告げられた場所に来た、父アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子をしばって祭壇の上に乗せ、刀を取ってその子を殺そうとした。その時!天から「アブラハムよ」との声に彼は答えて「ハイ、ここに居ります」と、「あなたの手を息子の上に伸ばしてはならない、あなたの息子一人さえ惜しまず我に与えたので、あなたが神を恐れていることを知った」。その時目を上げてみると、見よ後ろに角を藪に引きかけている一頭の雄羊がいた。そこで彼は行ってその雄羊を取り、それを息子の代わりに燔祭のささげ物として捧げた。(創世記22章2〜13節)

◆ヤコブの井戸<一人の女性との解逅>
BC-926年、イスラエルはヤラべハムによって、南王朝と北王朝に分裂した。ゲリジム山は北朝側にあり、ヤコブの井戸もそこにあった。水汲みに来た女は井戸端に腰を下ろして休んでおられたイエスに「私共の先祖はこの山で(ゲリジム山)礼拝しましたが、あなた方はエルサレムにあると言っています」。と、礼拝場所について尋ねている。(ヨハネ4:20)

イエスは、女よ、わたしを信じなさい、あなた方はこの山でも、エルサレムでも無い所で父を礼拝する時が来る。・・・それは<今>である。

「神は霊であるから、礼拝する者は<霊>と<真>を持って礼拝しなければならない」ヨハネ4:24
注:<霊>とは人の中にある霊を指す(エペソ2:22参照)<真>とは実際のささげ物としてのキリストを指す

この霊なる神に触れるには、外側の場所ではなく、人の中にある霊を活用して、実体としてのささげ物であるキリストの中で礼拝するべきであると言われた。

◆主の晩餐の制定(マルコ14:22〜24)
イエスは(パン)を取り、それを祝福して裂き、彼らに渡して言われた。「取りなさいこれはわたしの体である」又、(杯)を取り、感謝を献げて渡された。彼らは皆(飲んだ)。
斯くして神のみ子を<飲む>こと、<食べる>ことが新約時代の今は、神に触れる唯一の道であり、神に対する真の礼拝であることを示された。

◎この価高きパンと杯(神の言)を食べ飲みする時、始めて霊的五官が機能する。

空っぽの幕屋!!

「その時、<雲は>集会の天幕を覆い、神の栄光が幕屋を満たした。」(出エジプト記40:34)

これはシナイ山の麓で、神の住まいとして地上の幕屋が建造されたときのことばでした。
ところが、この幕屋の本体である「証の箱」が持ち出され、幕内より外へと分離してしまった悲惨な歴史があるのです。(サムエル記(上)4:9〜22参照)

それはペリシテ人(パレスチナの呼称の起源)との戦いで、イスラエルは戦況が不利になってきたので、幕屋の中の聖櫃を戦場に持ち出したのでした。
この「箱は」見えない神の証であり、見える人となられたキリストを予表しており聖書の重要な鍵です。

故に、箱のない幕屋は中身のない、本質がない伽藍堂。この本尊たる箱を自分たちの安全や癒しの為にあるのではなく神の尊い「永遠のご計画」を推進するためのものでした。

◆転々とした箱
奪われた箱は偶像の宮(タゴンの宮)へ持ち込みタゴンのそばに置いた(サムエル記I.5:1〜8.詳細に興味津々。)
次の日に朝早く起きてみると、タゴンは箱の前でふつ伏せに地に倒れていた。彼らはそれを元のところに戻した。次の日の朝、彼らが早く起きてみると、タゴンが神の箱の前で、うつ伏せに地に倒れていた。その上タゴンの頭と両手は切り離されて、敷居の上にあり、タゴンの胴体だけが残されていた。

神のみ手はこの地の人々の上に重く臨み、人々を腫物をもって討たれ、恐れ悩まされた。

この地に住む人々は、この有様を見てイスラエルの神の箱を、我々のところにこれ以上、止どめて置くことは出来ない。と音を上げてしまった。次にその箱を「ガデ」(現在のガザ)に移した。彼らがそれを移すと、主の手がその町に臨み、そこで又大騒ぎとなり、その町の人々にも老若を問わず腫物ができた。そこで彼らは次にエクロンに送った。しかし此々エクロンでも大騒ぎとなり腫物と死の恐怖に襲われ、その叫びは天に達した。と言っている。

結局、神の箱はペリシテの各地をめぐり七ヶ月間止どまった。(地中海に面した西海岸の地)
箱の扱いに万策尽き、二頭の牛車を仕立て箱を載せ、牛の手綱も付けないで進むがままに任せて見守っていた。(その顛末はサムエル(上)六章に)

◆神殿破壊と箱の行方
宇宙にある人の視界に入る全ては、見えない霊的なものの象徴である。旧約にあるあらゆるものは、予表としての来るべきキリストを指し示している。
例えば<太陽>は地上のあらゆる生き物に必須の光としてキリストを象徴し(マラキ4:2、ルカ1:78〜79)<空気>は人の鼻から息として吹き込まれた。(創世記2〜7)<水>は渇くものは来て飲みなさい。と(ヨハネ7:38)<食物>については私は天から下ってきたパンである。と(ヨハネ6:35)

しかしながら、ユダヤ人の誇るあの荘麗極まる<神殿>もその中心に置かれた<証しの箱>もローマ軍タイタスに依ってAD70年破壊された。
箱も持ち出されその所在は不明である。

ああ、私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去り見えないものは永遠に存続する。とコリントⅡ4:18節に言う。
又、古いユダヤ教の中に浸された人々へ。「食べること、飲むこと、祭りや、新月や安息日の事で・・・・これらは来るべきものの<影>にすぎづ、その本体は<キリスト>にある。」コロサイ2章16〜17。に明記している。
夜はもうすぐに来る。暮れて往く黄昏の時を捕らえよ、夕日が西へ移り、空が赤く染まり灰色に、最後の一線なる光陰はまもなく消えて逝く。

●言(ことば)<キリスト>は肉体となって、私たちの間に幕屋を張られた。(ヨハネ1:14)

永遠へのターミナル!

新約聖書の冒頭に「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ」とある。

そのヤコブは母の胎にいる時から実にユニークな生い立ちの持ち主であった。
それは双子の兄エサウの足のカカトを掴んで生まれでてきたと記されている。(創世記25:26)

生まれながらの性質の中の聡明さ、その手腕、才能など、この世に生を受け生存競争の激しい人生を波乱万丈、栄枯盛衰を経た晩年。
死が迫ったある時、十二人の息子たちを呼び寄せ辞世の言葉を語った。

そしてユダに対して創世記49章8〜12節に、その中の11節には「彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雄ろばの子を、よいぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。」
註:「ろばをつなぐことは」旅が終って目的地に到着したことを示している。
人生の労苦や努力(魂・プシュケ)を停止してゾーエの命なる源キリストの中に安息することを表徴している。
尚、ぶどうの木はゾーエの命に満ちたキリストを予表している。「わたしは真のぶどうの木」とイエスご自身が語りだされた。(ヨハネ15:5)

●「上着をぶどうの血で洗うとは」
人の日常の人生の歩みをキリストの命の豊かさの中に浸すことを意味する。

◆エデンの源泉。消失した二本の川。
一つの川が、この園を潤すためエデンから出ており、そこから別れて四つの源となっていた。そのうちの二つがチグリスと、ユーフラテス川で現存している。

しかし後二本の流れがエデンの園と共に地図上から消えてしまっているのを発見して、私は長い間困惑していました。
創世記2章11節に「第一のもの名はピソンで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は良質で、又、そこにはブドラクとしまめのうを産出した。」
「第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。」

創世記のこの記述は単なる古代歴史の記録ではなく現代に私たちの心の中に流れている。
それは命(ゾーエ)の流れと、知識(善悪)の流れです。
この知識の流れは複雑で善と悪が共にあり、その上、知識が混在した死に至る流れなのです。

命の流れの源泉は、人類の原罪を十字架上で贖罪を果たされた時、ローマ兵士の突き刺した脇腹から流れ出た水なのです。(ヨハネ19:34)
その流れは全聖書の最終の書。
最終章ヨハネ黙示録22章1節に届いている。
「み使いは又、水晶のように輝いている命の水の川を私に見せてくれた。この川は神と子羊とのみ座から出て流れている。」と

◆イエスの叫び <ヨハネ7:37〜39>
ユダヤで三大祭の内最も大きな祝祭、仮庵の祭りの終わりの大いなる日。
イエスは立って叫んで言われた。
「誰でも渇くものは、わたしに来て飲みなさい。私を信じる者は聖書が言っているように、その人の最も内なる所から(霊)生ける水の川が流れ出るようになる。」と
若い頃の友人は言った。祭りは良いが終わった後が寂しい!と
「祭りは」人生の様々な喜怒哀楽を経て必ず訪れてくる体の命。その時は賑やかで、楽しく心が浮き浮きするほんの数日間で終わってしまう、まるで影法師のようだ。

体の命、すべて物質的なものは終わりの日がやってくる。

◆枯れ葉と小さな魚
山の中の小さな川、流されていく枯葉の間に何匹かの小魚が逆上っていく。
ここに命と死が有る!時代の流れの中に大勢の人と共に当てどもなく運ばれていく。しかし、一方で小魚のようにはっきりとした目的を持って時代の流れに逆上って泳ぐ魚。往けども行けども混乱と果てしない不安の中に死の淵へと流されていく人生!・・・時間から永遠に!