<比類>稀なる系図

新約聖書を開いて、先ず一ページの始めから読む・・・そして長々と聞き慣れない名前の羅列。ついに飛ばしてしまうのが常である。田舎の或る人は言った・・<アブラ虫がイナゴを生み>なら分るが、ことばが馴染めない!と。
そこで大方の読者は閉じてしまう。又本棚で再びページが開かれにくいのが常であった。
ところが・・・この系図の中に途轍(とてつ)もない深い意味が潜んでいるのを見出す。
それは、その先祖に娼婦であったラハブの名と、近親相姦の娘・ルツの名が列ねている故です。

◆神の選民と異邦人(外国人)
イスラエルの民(ユダヤ人)、悲惨な暗くて腐敗した歴史。その途次、嵐の後の静けさが漂う二つの麗しい女性の物語。
この系図には何故か?五人の女性の名が記されているのを見る。この五人の内一人だけが清純な処女マリヤ。キリストはこのマリヤから生まれました。
残りの四人は、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバで何れも異邦人と再婚の女性でした。王制の国で外国人や、ましてや再婚の女性を王室に入れることは、更に、娼婦が入ることなど考えられないこと。
これが暗示していることは、キリストがユダヤ人に限らないで異邦人にも、しかも罪深い人々にも関わっている”神秘”がある。(詳細はルツ記及びマタイ福音書。回復訳注解に見る)

◆ルツ記から(旧約聖書)
聖書を読んだことが無い人も、ミレーの”落ち穂拾い”や”晩鐘”、”種まく人”の画を見ない人は少ないくらい有名な絵。それは茨の中から生長する白百合のような香りを漂わせている。この画の原点は旧約聖書のルツ記にあり、その歴史の背後には、死海に没した町、火による消滅したソドムから逃れて住んだロト(父)。との近親相姦の間に生まれた一人の女ルツ。(創世記24章30~38節に詳細)彼女は成長して飢きんの為、ユダの地ベツレヘムからモアブの地へ移住して来たナオミ(ユダヤ人)。その後、夫と死別し二人の息子はモアブの女性をめとった。しかしながら息子たち二人とも死んだ。その嫁であったモアブの女がルツ。
ルツ記一章の始めからその災難と不幸の連鎖がある。六節は、母、ナオミは二人の嫁を連れて帰ろうとした時。8節~18節にその嫁と姑のやりとりに涙する。22節にこうして、ナオミとモアブの亡き息子の嫁ルツと一緒に帰って来た。彼女たちは大麦の刈り入れの頃郷里のベツレヘムに着いた。

◆王の系図から(マタイ一章5~6節)
サルモンは”ラハブ”から「ボアズ」を生み、ボアズは”ルツ”からオベデを生み、オベデはエッサイを生み、エッサイは”ダビデ王”を生んだ。
さらに旧約聖書をたぐって、ルツ記四章20~22節を見ると、ナションはサルモンを生み、サルモンは「ボアズ」を生み。ボアズ~オベデ~エッサイ、エッサイは「ダビデ」を生んだ。
かくして・・・ルツの夫となったボアズの血統は娼婦であったエリコの住んでいた窓に。赤い紐のしるしを吊るした女性であり。それから三代目に最も偉大なるダビデ王が生まれた。

◆選びのみ手
多くの人々の中から一人の人。アブラハムが選ばれ、多くの人々の父祖となった。創世記十二章1~3節にそれを見る。
アブラハムから42世代目にキリストがお生まれになった。神が選ばれた民イスラエルは、この様に異邦人を血統の中にもち、奇しき人種配剤によって、選民に限らず。すべての民の救い主として誕生された。国や人種の差別が無く、全人類の救い主として、神は、み子イエスをこの世(サタンの支配するアーカイブ2021.4月暗闇の王国参照)に遣わされた。
これらのの系図に秘められた数々の出来事。エリコのロックダウン~ナオミの郷里ベツレヘムの飢饉。隣国モアブ移住等々。イエスの誕生1100年も前の出来事の意味を深く考察しなければならない。

残された安息日とヨベル

<ヘブル人への手紙>は、五つの”警告”から成っている。その第二の警告に注目したいのです。それは、現代の世相が聖書の言う”荒野の果”を日々感じさせられるからです。
「だから」とか「「こう言う訳で」とかの前置詞から始まっている。四章一節”だから、神の安息にあずかる約束が未だ残されているのに、取り残されてしまったと思われる者が、あなた方の内から出ないように気をつけましょう”。と直接には、週の七日目の安息日(土曜日)を堅く守っている人々。ユダヤ人やメシャニックジュと呼ばれている人々に対して警告を発している。<九節に>、こう言う訳で、安息日の休みが神の民の為にまだ残されているのです。
十二節には結語として、「神の言は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を識別することができるからです。(アーカイブ霊魂の切り離し2020.2月参照)」

◆ヨベル(ペンテコステの年)
安息日が週の七日目に守られたように。<安息の年>は耕作は休作し、種播き、収穫も無かった。これを七年毎に七年間繰り返し49年の翌年、即ち50年目にヨベルの年が来て守られた。
この年には売り渡した土地や負債は帳消しに。奴隷は開放しなければなかった。(レビ記25:8)
これはイスラエルの民が、エジプトで奴隷としての状態に相似しており。パロ王はサタンを、エジプトはこの世を予表し、イスラエルの民は「神の民」を予表している。この事は又、この世に生きるすべての人々も、サタンのとりこ(罪の奴隷)となっていることを示し、真の自由も、安息も無く、毎日あくせく骨折り労苦し、振り回されて真の自由も、安心も得られず、遂に死に至る。
見えざるサタンのとりこであることに気付かず、しかし、人がキリストによって生きるなら、キリストは私たちのヨベルです。この時人の内側は開放を味わう。

◆父の家へ帰される
ヨベルの年の例証として、父の家から離れて放浪の旅に出た弟が、父の家へ戻される例証として、新約にはルカ15章に有名なたとえがある。視点を変えて父の立場から展望すると、ようやく若者に育った子が突然家出したら・・・・・父はどんなにか淋しく、悲しいことか・・・・・しかし或る時、この息子が貧しくなり、まるで廃人のようになり、疲れ果て、帰って来た。
その時の父の喜びはどんなであったか・・・・・。
実は。この放蕩息子は他でもないこの世に住む人々です。彼は所有者なる神を失い、自分自身を奴隷として売り、自由を失いました。
然し。ヨベルの年が来ると、人は元々所有者なる神に戻され、開放されて束縛から自由になるのです。之が「罪の奴隷からの開放(救い)なのです。
●ルカ4:18に。囚われた人たちには開放を、”盲人たちには視力が”(アーカイブ2019.11月参照)回復されることを告げ知らせ、”圧迫されている人たち”を開放して去らせ」これが父なる神の喜びであり旧約のヨベルの実際なのです。
●参照聖句:レビ記25:8~10節、35~41節(安息の年)、イザヤ書49:8、IIコリント6:2
罪の束縛の下に圧迫されていた人たちが、神の救いの開放を享受して、新約のヨベルにあずかる時代(即ち現代を指す)。
※そういう訳で、・・・祭りや新月や安息日について・・・来るべき事柄の影で、その本体はキリスト・・・コロサイ2:16~17

◆報復の日・ハルマゲドンの戦い
かくして、安息日の残された安息は二重の意味をもち、旧約で予表されたことが新約の時代の現代において、多くの予表のように実現しつつハルマゲドンに至る。
神の敵である反キリストと、その追従者にとっては神の報復の日となる。(黙示録19:11~21)
・註:ハルマゲドン
現シリヤのメギドンの山を意味し、(黙16:16)三つの汚れた霊との最終世界戦争となる。
尚。これらの詳細は福音書房刊。
旧・新約聖書の註解とW・リー著 ヨベルからの引用

偶然?必然?

◆五人の夫を変えた女(ヨハネ4:3~42)
イエスはガリラヤへ行くため、一般の通路のヨルダン沿いの渓谷の路ではなく、わざわざ迂回するサマリヤへの道を行かれた。
その途次一つの井戸があり、旅の疲れか坐って休んでおられた。”ちょうどその時”、一人のサマリヤの女が水を汲みに来た。イエスは”わたしに水を飲ませて下さい”と言われた。
イエスは、この女が五人もの夫を変えたことに触れ、この水のように何杯飲んでもすぐ乾く、又飲みたくなる様を例に語り出された。
そこで新約の時代に入った今。最も意義深い神への礼拝の本質について語られた。
●アーカイブ2019年9月.礼拝参照

◆ちょうどその時(マタイ21:1~11)からの引用
イエスと弟子たちがエルサレムに近づき、主の十字架を前にした日曜日。身の危険をもかえりみずゆく途次。主は弟子たちに言われた。
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろば・がつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしの所に引いてきなさい。もし誰かが何か言ったら「主が入用なのです」と言いなさい。すぐ渡してくれる」。と新約聖書に書かれている。
しかし旧約聖書イエスの誕生以前、ゼカリヤ書九章九節、BC520年~518年)にその予言がある。「シオン(エルサレム)の娘よ、大いに喜び叫べ見よ!あなた方の王があなた方に来られる。彼は義であり、救いを担い、卑しくなって、ろばに乗られる。それもろばの子ろばに」・・・
するとエルサレムの住民はどよめいた。と!!

◆水がめのしるし(ルカ22:7~13節から)
イエスは最後の晩さんの準備をする為、ペテロとヨハネに言われた。都に入ると、水がめを運んでいる人があなた達と出会う。その人が入る家までついて行き、そして、家の主人にこう言いなさい。「先生が、弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」。と言っておられます。すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこで用意しておきなさい。
彼らが行ってみると、イエスが言われた通りだったので過越の準備をした。

◆出会いの不思議(使徒行伝8:26~40から)
或る時、弟子ではないピリポは、突然み使いの語りかけで「立って、エルサレムからガザに下る街道を、南に行きなさい」。と言った。そこは寂しい道である。ピリポはすぐ出かけて行った。すると見よ、エチオピアの女王カンダケの高官の宦官は、エルサレムに礼拝に来て帰る途中であった。彼らは馬車に乗ってイザヤ書から読んでいた。ちょうどその時ピリポは追いつき、声をかけ。馬車に一緒に乗り込み、「屠り場に引かれ行く子羊のように・・・」の意味を教えられ、宦官は信じてバプテスマされたと38節にある。

●そのII
十二使徒の一人ペテロ。と、ローマから派遣された百人隊長コルネリオは、異邦人であった。この二人の出会いほど、ユダヤ人と異邦人の関係を知る原点となっている。使徒行伝十章全体で双方の特異な体験によって満たしている。

◆補遺
肉眼では見ることが出来ない神は、絶えず、イスラエルの選民たちの間で、数え切れないほどのことを行われました。
しかし彼らは誰が「それ」を行ったのか、全く知らずに毎日過ごしていました。
或る時は旅人となり、友人や先人の言葉により、環境におきる一切の出来事を通して、更に自然界の様々な現象を通して、神は語っておられたにもかかわらず・・・。
現在、昨日も今日も神は私たちに語りかけておられる。この神の声を認知する霊的直覚が人の霊の中にあるのです。それは人には良心が誰にもあるように。”人の心を見抜くかたは霊の思いが何であるかを知っておられます”。

ローマ書8:28節から

ロックダウンと神のみ手

ヨルダン川と死海に近い古代の繁栄都市エリコ。
ヨシュア記六章に、イスラエルの人々の故(ゆえ)に、(堅く閉ざして出入りする者が無かった)。その時ヨシュア(モーセの後継者)はひそかに二人の斥候を送りエリコの街を探った。
彼らは行ってラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。と二章一節にある。
多くの人は何故?・・・神の民が、異教の、しかも遊女の家に入り泊まったのか・・・
そこには、見えない神の配剤(昔、薬剤師が数種類の薬を調剤する)のもと、斥候と遊女の出会いがあった。

◆赤いひものしるし(兆)(ヨシュア記二章)
二人の斥候を隠まったた遊女ラハブは、かつてイスラエルの民がナイルの海が割れて渡ったこと。
荒野で四十年間、天から降ったマナ(食料)で養われたこと等々耳にしていたので身の危険をも省みず、イスラエルとその神に運命を共にしようと決意した。
その内容は、映画で見ているように二章全体を埋めている。その12~13節のことば。
「どうか今。私に誓って下さい。私があなた方を親切に扱ったように、あなた方も父とその家族に対しても親切に扱われることを、今、私に確かなしるし(兆)を下さい」と懇願している。
二人の人はラハブの願いに対して答えた。
我々(イスラエル)がこのエリコの地に入るとき、我々を吊り下ろした窓にこの”赤いひも”を結びつけ、そしてあなたの父母、兄弟及び家族を皆、あなたの家へ集めなさい・・・
こうして彼女は二人を送り出したので、彼らは去った。そして”彼女は窓に赤いひもを結んだ。”と18~21節にある。
そうして、結果がどうなったのか、<エリコの大破壊>とラハブの家族の救出が詳細に六章全体で描写している。(旧約聖書)

◆もう一つのロック
新約聖書27巻のうち、14巻の著者であり、その内の五巻を獄中で書かれたゆえに、鎖につながれた大使と。自己紹介している(エペソ6:20)当時、ローマの支配下にあったギリシャ、ピリピにて二つの事件に遭遇したパウロ。その一つは若い女占い師が、パウロとシラスの後を追い、福音を伝えるのを邪魔をした。それは占いによって商売が成りたたなくなる為、ローマの役人の元へ連れ出し、商人が連名して騒ぎ出した。(使徒の仂き16:23節)
役人は群衆と一緒になって責め立て、パウロらの衣服を剥ぎ取り、鞭で打って命じた・・・
獄吏は彼らを奥の獄に入れ、足かせを嵌めた。ところが真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りながら神に讃美の歌を歌っていた。その時、”大地震が起こり”土台と扉が開き、囚人の足かせもはずれてしまった。
看守は牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまった!と思い込み剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んで言った「”自害してはいけない。私たちは皆ここにいる”」。・・・看守はパウロの前にひれ伏し、震えながら私たちは救われる為に、何をすべきでしょうか?すると二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」。そして彼とその家族はすぐにバプテスマされた。と使徒行伝16章後半にある。

※付記
二つの崩壊とその中に居た人たちの救いは、決して外国で、又、人ごとではないことを知る、”赤いひも”は十字架で流れた血を表し(赤十字)エリコの町は現代世界、牢獄はサタンによって拘束されている人々(罪の奴隷)、それぞれの”しるし”として観る時。読む時・・・神は、すべての事、すべての人、すべての物を用いて環境を整え、患難さえも甘い訪れとして、又恵みの化身として受け入れる時、祝福が訪れる。と、ローマ人への手紙、八章28節に言う。※エリコの街は、周囲を二重の高い壁に囲まれ、然も、地中海面より258m低く世界で最も標高が低い街。しかも反映した重要な都市であった。

二つの逆転・予言と宣言!

◆ペルシャザルとダニエル(ダニエル書五章から)
若き貴族の一人、バビロンへ捕囚と神への信仰を貫いたダニエル。一方バビロン最後の王ペルシャザル。千人もの名士と共に大宴会を開いたその時。エルサレムの宮から持ち帰った、器で酒盛りをした。すると突然人の指が現れ宮殿の壁に字を書いた。「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」すると王は顔色が変わり・・・腰の関節はゆるみ、膝は互いに打ち始めた。
王は大声で叫び呪文師、星占いらにその解き明かしを求めた・・・が彼らは応じられなかった。
その時。捕囚の民ダニエルが呼び出され、壁の文字の解き明かしをした。「メネ」は王国の崩壊、「テケル」は分裂、「ウパルシン」は分裂から崩壊に至る数々の悪事が秤られた。との意味を伝えた。

「そこで王は命じた。ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけさせ、彼が国の第三の支配者として支配すると布告した」。・・・その夜、ペルシャザル王は殺された。と5章30節は結んでいる。

◆メドペルシャ・クロス王の宣言
神の選民(ユダヤ人)の背信、堕落の末に捕囚となり、離散の末に大転換点となった史実。
BC・536~331年。当時ペルシャ(イラン)は東は印度から西はギリシャに至る巨大な勢力を持っていた。
旧約聖書エズラ記の冒頭1章2節に布告と宣言を見る。・・・又、エレミヤが予言(エレミヤ記25:11~12。29:10)通りに、七十年の捕囚満了とともに主権を持つ神は、見えないみ手で外国の王を動かし、捕囚の民を開放。イスラエルの国に戻し、神殿の再建の途に導かれた。(3~4節)

◆ハマンとモルデカイ
典型的、独裁君主アハシエロス(別名:クルクセス)のもと、宰相ハマンはユダヤ人の娘エステルが王妃となった五年目、「すべての州のユダヤ人を殺せとの命令を出した」。
若い者も年老いた者も子供も女も滅ぼし、殺し。全滅させて彼らの家財を略奪するように命じた。

”その時”モルデカイとエステルは、捕囚となって移住させられていたユダヤ人であり、王妃エステルと叔父であるモルデカイは相談し、王に直接訴えた。これら一切の王とエステル、ハマン、モルデカイの息詰まる問答が四章~七章に映画を観るが如く描写されている。
その頂点は七章の10節の逆転のことば、「そこで、人々はハマンを、モルデカイの為に備えてあった木の上にかけた。こうして王の怒りは納まった。(エステル記7:10)」

◆補遺
神の選びの民。ユダヤ(イスラエル)民族。もしキリストが生まれる500年も前にエステルが王妃でなかったら、又モルデカイと居合わせなかったら、彼らが滅ぼされていたら・・・・神のご計画と全人類の運命は果たしてどうなっていたであろうか?

ユダヤの民族が無いところにメシヤも無く、メシヤが無ければ世界も無い。
旧約聖書のちょうど中間点に位置し、読む人々はホッとするのはなぜなのか?このエステル記は奇妙なことに<神>なる言葉が一度も使われていない。そのせいか多くの人は文学書として読む。隠された神のみ手、予兆として霊的に見る時。今、起きているイラン対イスラエル。又鷲の国アメリカが胎動。…今後の世界の動静が見えてくる。

●付記
ユダヤ教の例大祭なるプリムの祭りには、このエステル記が全部朗読されると言う。そうして、ハマンの名前が出てくる毎に金属を打ち叩いて叫ぶ、祝うならわしが続いていると言う。

ロゴス<言(ことば)>を食べる道!

ヨハネ福音書の冒頭のことば。一章一節に。
「初めに<言>があった、<言>は神と共にあった」。この深遠なことばの意味するところは、人の語りだす言葉とは次元が異なり、”初めに”の三文字に深い秘められた意味があるのです。
それはイエスが人として生まれる以前、永遠の過去を指しており紀元前を言う。(回復訳聖書・注解)
又、「言」は神の口から出たことばで、不朽の命がその中にある。即ち、ロゴスと呼ばれる。
この<言>によって天と地、万物が創造された。

創世記一章3.6.9.11.14.20.24.26.29節にその<言>が九回記録されている。
神は人に直接語られた創世時代、人が神の前に罪を犯した結果。神との直接会話は途絶えてしまった。そんな中、神は数奇な運命の元でモーセを選び、エジプト脱出の途次、東エジプトの荒野でBC-1490年。創世記、出エジプト記、レビ記、民教記、申命記の五書が神から直接、口述筆記したと見られている。

その後は、預言者(神の言を預ける)を、新約時代には使徒がその務め(つとめ)に当った。現代に入って之らの人々の書き残された<言>が、聖書として手もとにあるようになった。

◆祈りながら読む元点
著者なる神と交わりながら読む始まりは、アダムから三代目のセツの子、エノスの時代、その時人々はエホバのみ名を呼び始めた。と創世記三章26節に見る。ヘブル語は”呼び出す”を意味し、ちょうど土俵に行事が力士を呼び出すのに似ている。エノスは父セツや祖父アダムの死に始めて直面し、人の命のもろさ、くずれ往く肉の体。たとえ千年近く生きた父や祖父の死に接し、命のむなしさから「叫び」となった声となり。”神のみ名を呼び始めた”

その後、詩篇記者は百篇一節に、”全地よ!エホバに向かって喜びの叫び声をあげよ。”98篇4節・・・大声を発し、喜びを歌へ。騒ぎ声をあげよ!等に見られる。

新約時代に入り、福音を小アジアからギリシヤ、ローマへと拡散した時、反対者たちはクリスチャンを迫害した。殉教したステパノと迫害する側にあったサウロ(改宗後パウロ)共に証のことばがある。使徒行伝七章59~60節と、二章21節に「主のみ名を呼び求める者は皆、救われる」。と明記している。

更にテサロニケの人たちへの手紙(I)5:17には”絶えず祈れ”とすすめている。中世に入ってカトリックの修道僧ブラザー・ローレンスは、料理人としてお皿を洗いながら、料理しながら、祈った生活をすべての時間実行した。人はイエスのみ名を呼び求めるように召された。Call-Called.

◆天から下って来た生きたパン
創世記二章には「食べたら死ぬ」とヨハネ6:51の下の句では「食べるなら永遠に生きる」とまるで逆のことばを読む。
人の体の中に入るものに依って生き、又、死ぬ。死なない迄も中毒症状や不健康になる。
食べるものにより人は運命を決する日々。霊的にも同じことが言える。

聖書は実に興味深々!読めば読むほど。霊で読めば読むほど、深い味わいが得られる。
同じ六章の54節には、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ、わたしは彼を終わりの日に復活させる」。血と肉が分離することは死を表し、ご自身の十字架上で行なわれたことを信じることによって、命と、命の供給をその贖いによって受け取ることが出来る。

●文字は人を殺しますが、霊は命を与える!II、コリント3:6
七十年の信仰生活の経験から・・・聖書研究や教理の研究に偏ると、人を霊的死に追いやる危険が潜む。主のみ名を呼びつつ、讃美しつつ、み言葉を食べることをおすすめします。
歩いている時も、運転する時も、電車で通勤途上であろうと、料理する時も、いつも習慣にする時、言い知れぬ内側に霊の満たしを経験します。
・「みことばの飢饉が来る前に」アモス8:11

オオ主イエス!主イエスよ!ローマ10:13

〜裁き〜永遠への門!

◆第一の死
死は終わりではなく、一つの始まりである。
人の一生は短い、そして、その生涯は死によって終わる。・・・しかし死んだ後に永遠がある。この永遠は死が入口〜門だ!
人はこの時代に行ったことは、なんであれ永遠に於いて裁かれる。多くの人々は犯罪を犯す。然し法律上の刑罰や、世論の恥辱をなんとか逃れるかも知れない。一旦死ねば刑罰に遭はずに済むと思っている。
然しながら<死>は決して万事の終わりではなく、あらゆる事は必ず<裁かれる>。人は罪の中に生まれ、罪の中に育ち、又罪の中に生きている・・・そして死ぬ!
「神はあらゆる行為を、あらゆる隠された事と共に、善であれ、悪であれ、裁かれる」。伝道の書12:14。ヘブル9:27参照・新約の主題(II)476Pから引用

◆天のみ座の光景
一筋の火の流れがみ座から出てきた。・・・千々万々の者がみ前に立ち、裁く方が法廷に座し、数々の書物が開かれた。と審判の光景が描かれており。(ダニエル7:10)
キリストの再臨の時には、生けるすべての人々が裁かれる光景が描かれている。(マタイ25:41)
それは、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を<右>に山羊を<左>に置く」。
一方死んだ人々の裁きは、黙示録20:11〜15節に。
又、「死人が大いなる者も、小さな者も、み座の前に立っているのを見た。そして巻物が開かれたがそれは”命の書”で、死人はそれらの巻物に書かれた事により、彼らの行ないに従って裁かれた」。

かくしてアダムから(律法以前の人々)から。律法時代〜恵みの時代(現代)に至る、すべての人々の裁きが決められている。
その他、裁きの詳細は全聖書に亘って詳細に記載されいてる。

◆裁く方が裁かれる
夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち(宗教指導者)一同は、イエスを殺そうと相談した。
そしてイエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。(マタイ27:1〜2)
彼は頑固で過酷な人物であったと言われ、ユダヤ人から好意を持たれず、その政治は腐敗したと伝えられていた。
特にその残忍性を証しする記事がルカ13:1に記されている。又、イエスを無罪と認めながら、ユダヤ人の強硬な要求に屈して、ローマ皇帝から不興を受けることを恐れ、イエスを十字架につけるべく鞭打ってからユダヤ人に渡した。(マタイ27章他マルコ、ルカ、ヨハネにも克明に記している)。
尚又、ピラトの妻からの伝言があり、それに動かされた面が見受けられるのを見逃せない。結局、ユダヤ人の群衆とローマ皇帝、さらに妻の間に立って判決が揺らぎ、群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、私には責任がない、お前たちの問題だ」と記している。
後に、彼はイエスの弟子で反逆したユダと同じ、総督の任を解かれ自殺した。

註・アーカイブ2020年10月、“その時”一人の女と男。参照

聖歌<635>
裁きの日は 近づけり
審の日来たらば 正しき者と
不義なる者は ことごとく分かたれん
備えは如何にや 裁きの日の為に 備えは如何にや 人々よ!
悲しき日は 近づけり悲しき日来れば
イエス言われた 不義なるものよ去れ
我は知らず!と

<634>
夜の終りラッパ 鳴り渡る時
世はとこ夜の朝となり 救われし者は
世の隅より すべて主の元に呼ばれ
その時 我が名も その時我が名も
呼ばれなばなばかならずあらん!

身土不二

韓国旅行中、バス車内で見かけた看板。
ハングルではない漢字で”身土不二”奇異に感じ、たずねてみると、葬儀屋の看板であった。
聖書の冒頭、創世記三章17節に神が人祖アダムに言われた言葉がある。それは「人と土」との関係について。
あなたは妻の声に聞き従い、わたしが命じて「その木から食べてはならない」。と言った木から食べたので<土地>は人の故に呪われる。

あなたは一生労苦して食を得る!
<土地は>あなたに対して<茨>と<あざみ>を生へ出させ、あなたは野の菜類を食べる。
あなたは額に汗してパンを食べ、遂に土に
帰る。あなたは土から取り出されたからだ!

あなたは”ちり”だから、ちりに帰る
註・ヘブル語で<aDaM>は赤い土を意味する。

◆人は土の器
神は創造週の六日目に人を創造されました。
「神は言われた。神は自分のかたちに(内側)、我々に”型取って”(鋳型)人を造り」と創世記2:27に。
その創造目的は、最高の傑作として、その中に<霊>なる神が核となり、入るために<器>として創造された。
ところが、その器の中に”サタン”が先走りして神の入られる前に入ることに成功してしまった。故に、エデンの園から人は追放されて、後楽園や偕楽園ならぬ失楽園と成ってしまった。
新約時代に入って、使徒パウロは第二コリントの人々に送った手紙の四章十七節には、私たちはこの宝を土の器の中に持っています。と言い、正に価値の無い、実にもろくて、こわれ易い土からなる肉体!と言っている。
※参考:人の肉体の元素と土の要素など63品目の無機質。ほか有機質、酸素、炭素、水素、窒素、約80%の水、蛋白質、カルシウム、人の体は、これらの元素が有機的に結合して完成されたもので、これらは又地球の一番外側の層の中に見られる。と地質学者は言う。

◆旧創造〜新創造:アルファ〜オメガ
<器>は、中身が何であるかによって本来の意味を持つ。空っぽの器は貧しく空しい。空の空一切は空(クー)である。とソロモン王は言った。
人は皆サタンが入った器で、毒され賞味期限があり。必ず死を避けられない時が訪れる。
どんな大企業のオーナーであろうと、華やかなスポーツ選手、有名なタレントも路傍の人と同じに必ず死に至る。
聖書の66巻の初めから巻末まで、肉と成った腐敗する人を始め、天も地も新天新地に。復興する流れが一貫して見られる。

・天と地その中の万物・・・新天新地(黙21:22)
・第一のアダム・・・第二のアダム(IIコリント15:45)
・イスラエル(選民)の民・・・召会(世から召し出された人々)エペソ4章
・古い都・・・新エルサレム(黙21:22章)等々!

私たちの外なる人が朽ちていっても。内なる人は、日毎に新しくされていく。割礼も無割礼も重要ではありません(IIコリント4:16)
重要なのはただ新創造です。ガラテヤ6:15

<<暗闇の王国”この世の正体”>>

◆この世の君の生い立ち
”暁の星、夜明けの子よお前は天から落ちてしまった!・・・・お前は地に切り倒されてしまった!”と神から託された言葉がイザヤ14:12にある。
暁の星、夜明の子として「宇宙の夜明」に神に創造された最初の天使であった。
しかも天使の頭として定められた。ところが高ぶり「わたしは神だ、海の真ん中で神の座についている」と言って、自分を神のように見なしている。(エゼキエル28:2)
新約時代に入り、ヨハネは第一の手紙。2:15〜17節に「世と世にあるものを愛してはいけません。・・・・すべて世にあるもの、即ち<肉の欲>と<目の欲>と<生活の虚栄>とは、み父から出たものでなく、世から出たものだからです。世と世にあるものは過ぎ去っていくが、しかし、神のみこころを行なう者は永存するのです。」
更にヤコブは(イエスの肉親の弟)鋭いことばで、「姦婦」たちよ!といい。あなた方が世の友となるは、神への敵対であるのを知らないのか?と4:4に言っている。

◆11もの名を持つ悪魔
(1)巨大な龍:特徴〜残忍さ
(2)年を経た蛇:古い蛇〜欺く者
(3)悪魔:敵対者〜誘惑
(4)サタン:   〜憎しみ
(5)この世の神。〜この世の宗教の首領(IIコリント14:4)
(6)この世の君〜強大な権力を持つかしら
(7)空中の権を持つ者〜<邪悪の霊>の王(エペソ2:3)
(8)神の子たちを訴える者
(9)底知れぬ所の使い
(10)吠えたける獅子の使い(ペラロI/5:8)
(11)光の天使に偽装する(IIコリント11:13〜15)

◆堕落のだんご坂
神は地上で人が生活するように創造された。
生きる必要な<衣・食・住>、最初の堕落は裸を”恥かしい”と感じることから始まり、家もその後の町づくりと同時に見られる。エデンでの生活時は、人は神と同じ水準に置かれていた故、<霊>によって生きており。その後に人は<魂>によって生き始め。次第に<肉>へと落ち、最終的には洪水を招いてしまった。
「わたしの霊は、永久に人と争はない」、人は実に肉と成ったそれで人の日数は百二十年となる(創6:3)
扨、洪水後に堕落の第三段階、どん底。<肉>から<偶像>へと落ちたその時!神は人の中に入ってこられ、人を回復される途へ”アブラハム”を引き出され聖地カナンへの旅路に踏み出した。

◆一つの声の”叫べ”と言う
<1>欺瞞の声は、常に人の心の中では仂く、しかし人はそれに気づかない。それは「この世を支配するもの、かの空中で支配するもの、即ち、不従順な者たちのうちに仂く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」・・・人々は皆、自分の肉の欲の中で振る舞い、肉と思いの望むままに行っていて、生来神の”激しい怒りの子”でした。とエペソ人への手紙にパウロは記している(二章二節)

<2>人の目を盲目にする
肉体は生きているが、霊的な命が死んでいる人々は皆”霊的盲人”です。

<3>偽の平安を人に与える。
それは何時しか不安に変わり、その浮き沈みは生涯続く。

<4>秘かに人を真理に反対させる
人の体は<肉>となり、人の<魂>は自己になり、人の肉は自己によって縛られており、この世によっても縛られている。
そのしばり縄は、毎日テレビで大部分を占めるグルメ。ファッション。家と、衣食住関連と結婚、車が主流を成しているのは・・・・貪欲を掻き立てている。この世の支配者。この世の君なるサタン!
しかし、このサタンも最後の時”火と硫黄の池に投げ込まれた。”と黙示録20章7〜10節に結末を画いている。

●福音書房刊。全頁註解付き聖書。この世のビジョンから引用。

その故は神知り給う!

暗闇は盲目を生み出し、盲目は暗闇を生む。
人は暗闇の中に誕生した。故に”人生”を知らない。”自分自身を知らない”。その上”神も知らない”。他人の罪を犯したのを見るが、”自分が罪人であることを知らない”。
その実例がヨハネ八章1〜11節に見る(アーカイブNo.18姦淫参照)
扨、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰かが罪を犯したからですか?本人ですか、それとも両親ですか」。・・・イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れる為である」。
<暗闇>は死を表徴し、裁きのしるしでもある。
その例が、イスラエルの民がエジプトを脱出する時、先例として出エジプト記10章21〜23節に見られる。
同様に世の終末にも暗闇がある。と、黙示録8章12節に記している。

◆シロアムの池
イエスは盲人に対して、奇妙な行動をされた。それは地面に<唾>をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして「シロアムの池に行って洗いなさい」。と言われた。
そこで彼は行って洗い、目が見えるようになって帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、”これは座って物乞いをしていた人ではないか”と言った。
この癒やしに主要な三つの点は、<泥>と<唾>とそれを<塗る>ことの意義です。
泥は<土>が材料で人が創造された。創世記2:7節にその原点を見る。<唾>もこの節に見られる<命の息>と同じようにイエスの中から出されたものです。
又、言葉は口から出ます。そして<言葉>は<霊>であり<命>であり、<唾>はイエスの口から出る言葉を表徴します。(ヨハネ6:63)。それに<泥>は人の性質を表徴し、神であり人である受肉のイエスの口から出された<言葉>は、世の光としてキリストが盲人の中へ入る唯一の道なのです。
更に、”塗られた泥を洗い流す”行動は。イエスの言われた<言>を信じる外側の”しるし”。でした。即ち<バプテスマ>水の中に沈める。ことです。
しかしバプテスマされた後も泥が残っている限り、霊的な盲目は残る。それは長年で身についた古い文化、倫理観、伝統的な宗教などの泥を日々洗い落とす必要があります。それは<言>を伴う水の洗いによって古いものを新陳代謝的に洗い去り、新しいものに置き替える仂き。
即ち聖化への道です。(エペソ5:26〜27)

◆タルソのサウロ(目からウロコの経験)
この世の高い教育を受け、ユダヤ教の最高議会。サンヒドリンの律法学者であった彼は一過性の盲目を経験した一人でした。
使徒行伝9:45、自叙伝に「サウロ、サウロ」。と呼ぶ声を聞き〜”あなたはどなたですか?”と「わたしはあながた迫害しているイエスである」との声を聞いた経験を書いている。
彼は肉眼は開いていたが盲目にされた経験の後に目は開けられ、霊的な事が見えるようになり、生まれつきの盲人である異邦人の目を開かせる使徒に召された。
使徒行伝九章にその経験を記している。又彼ほど稀有の領域、即ち第三の天からハデス迄の光景を見せられた人はいない。(コリント2。12-1―4.参照。)

 ●今日も夜がやってくる。明日も・・・
   然し、いつか必ず長い闇夜がやってくる。

されど、昇る太陽が高い所から私たちを訪れ、暗闇の中に、又死の影の中に座っている者に輝き、私たちの足を平安の道へ導く。