いのち<ZOE>の時!

ヘロデがユダヤの王であった時代、祭司ザカリヤとその妻その名はエリサベツと言った。
ところが、エリサベツは不妊の女であったので、彼らには子がなく二人共年老いていた。

祭司の奉仕をしていたザカリヤは、主のみ使いが香壇の右に立ち、あなたの妻エリサベツは身ごもり男の子を生む、その子をヨハネと名付けなさい。と医者であったルカは1章5節から24節にバプテスマのヨハネの誕生秘話を綴っている。

続いて六ヶ月目に天使ガブリエルは、ヨセフのいいなづけである乙女の所に遣わされた。その名はマリアと言った。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

彼女はこの言葉に戸惑い、一体この挨拶はなんのことかと思い巡らしていた。するとみ使いは言った。
「マリヤよ、恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。」云々・・・
マリヤは天使に言った「どうして、そのような事があり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」するとみ使いは答えて言った。
「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆うでしょう。それゆえに生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

「見よ!あなたの親類のエリサベツも、年老いているのに男の子を身ごもっている。不妊の女と言われたのに、もう六ヶ月になっている。神の言葉に不可能なことはないからです。」と1章26節から38節に記している。

◆ベビーゴット(神の子)<1ヨハネ3:2>
愛する者たちよ、今や神の子たちです。彼が現れる時、私達はみ子に似ることを知っています。その真の姿を見るからです。
この福音は、神の預言者たちにより、聖書の中であらかじめ約束されたものであって、み子に関するものである。み子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人の復活により、み力の中で神のみ子と定められたのです。この方が、私達の主イエス・キリストです。(ローマ1:2〜3)

◆内住のキリスト
アブラハムに肉による初めに生まれたイシマエルが、後から生まれたイサクの誕生によりイシマエルが追い出されたように。
尚又、その途次ソドムの破壊が告げられたように私達の中に新しく霊的誕生のキリストを日毎に経験しながら。
肉の両親から生まれた自己を追い出し、破壊していく日々であることを神は願っておられます。
斯くして私達は皆、顔の覆いを取って、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと主と同じかたちへと造り変えられていく人生こそ、最高の目標であり、望みです。(Ⅱ、コリント3:18)
又、神の霊があなた方の内に宿っている限りあなた方は霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
その霊によって死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう。(ローマ8:9〜11)

◆八木重吉詩集よりに二葉
28歳で結核で亡くなったクリスチャン詩人。
・我キリストに在りと思いし日より
 キリスト我に在りと思う日までの
 道の遠かりしことよ。

・我が詩いよいよ拙くあれ
 キリストの栄、日毎に大きくあれ

◆命(いのち)の三様(1月投稿 図参照)
 体の命(ビオス・ギリシア語)
 魂の命(プシュケ・ギリシア語)
 霊の命(ゾーエ:ギリシア語)

◆秘められた奥義
世の始めから代々に亘って隠されていた、秘められた計画が・・・神は知らせようとされました。
その計画とは「あなたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(コロサイ1:26〜28)

変装の神が訪れる!

九十九歳になった信仰の人アブラハム。神に導かれ世の荒海を流木のように漂い、ヘブロン地マムレの樫の木のそばに天幕を張った。
それは真夏の昼時、三人の旅人が立っていた。
彼は急いで走り行き彼らを迎え入れ丁重にもてなした。

◆受胎告知の二様
時にアブラハムは後継となる子が無かった。旅人は”来年の春、わたしは必ず此のところに帰ってくる。その時あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう”。
サラは後ろの天幕の入り口でそれを聞いた。

扨、アブラハムとサラとは年が進み、老人となり、サラは女の月のものが既に止まっていた。サラは心の中で笑って言った。
”わたしは衰え、主人も又老人であるのに私に楽しみなどあり得ようか。”と(創世記18:10〜15)に記している。

ところが新約の冒頭マタイ一章一節、二節と20〜25節には夫となるヨセフに対して、尚又ルカ一章26〜28節には妻となるマリヤへの受胎告知がある。
これら旧新の二つの記述を見る時、両方とも人手に依らないで神が人の中に何かを造り込んで子(霊的子イエス)を生み出すことができると信じる信仰を示唆しています。

◆二人の子の争い
時は逆上り、彼らが住んでいたカナンで飢饉があり摂理によりエジプトへ下った。(摂理の意:人には二つの耳が有るがもう一つの耳は神の声を聞く為にある)。
当時、女奴隷としてエジプトの女ハガルを入れた。
妻サライの夫への申し入れにより、ハガルにアブラムの子を産ませ、その名をイシマエルと呼んだ。その後サライとハガルとの間にトラブルが續き、そのてん末が創世記16章に詳細に見られる。その時アブラムは86歳であった。
イシマエルは野ろばのような人になり、その手はすべての人に逆らい、すべての人は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう。(創世記16:12)結局この問題は正妻サライのことば「このはした女と、その子を追い出しください。この仕女の子は私の子イサクと共に世継ぎとなるべき者ではありません」と。

◆古い人と新しい人
もし誰でもキリストに在るならば(接ぎ木されるならば詳訳聖書)その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った見よ!
すべてが新しくなったのである。((Ⅱコリント5:17)接木された木は、その命と性質に於て一体となること)聖書全体を鳥瞰図的に観る時、この二つの流れは一貫している。
第一のアダム、第二のアダム、律法と福音、十誡と十字架、旧創造と新創造、肉と霊等々非常に奥が深いのに事の重大さを感じさせられる。それは人類にと止まらず、天も地も巻き去り、第一の天と地は過ぎ去り。と(黙示録20:11、21:1)そのスケールは拡大している。
第一の人は土から出て、第二の人は天から出る。最初の人アダムは生きたものと成った。
しかし最後のアダムは命を与える霊となった。と第一コリントへの手紙の15章44節から49節に明記されている。さらに第二コリント5章17節には誰でもキリストに在るならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。と

◆結語。毎日のように報道されているイスラエルとアラブの争いはイサクとイシマエルに端を発し現在も進行しさらにトランプ大統領によって拡大される運びとなるでしょう。

破壊された十誡と隠されたアーク「箱」!!

漂流しエジプトに定着してしまったイスラエルの民。
神はこの選ばれた民の大集団をカナンへ連れ戻すためモーセ(引き出すの意)によってシナイの荒野へと導かれた。

或る時、従者と共に山に登り「光の源」なる神ご自身の「肖像画として十誡」を與えられた。(出エジプト記31:18)参照
ところが、最も尊い神ご自身の指で刻まれたこの二枚の石の板を投げ捨て破壊してしまったのです。
その詳細は出エジプト記32章にその惨状が画かれています。

◆アロンの杖の二様
権威の象徴として神から与えられた一本の杖。モーセの兄アロンに神は言われた。”あなたの杖を取ってパロ王の前に投げよ”と。
命ぜられた通りにその杖をパロと家臣たちの前に投げると、それは蛇になった。(出エジプト記7:10)
又、ヤコブの十二人の息子たちは、それぞれの部族の長として一本の杖が与えられていた。

しかし族長ルベンが祭司権について不満を持ち抗議した。神はその祭司権を立証するために言われた。十二部族の長の名を杖に記し「証の箱」の前に置くように言われた。(民数記17:1〜10参照)
翌日モーセは幕の内へ入って行った。
すると見よ!レビの家のアロンの杖から芽が出て、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。

◆マナの二様
イスラエル全集団はエリムから出立し、シンの荒野に着いた。
彼らはその荒野でモーセとアロンに対してつぶやいた。(詳細は出エジプト記16章に)

その時、神はモーセに言われた。
「わたしは今あなた方のために天からのパンを降らせる」民は出ていって毎日その日の分を集めなければならない。かくして荒野での四十年間もの間民の誰もがこれで養われました。

ところが旧約聖書の箱の中には二枚の石の板、すなわち律法だけがありました。
しかし、新約のヘブル人への手紙では、二つのもの、つまり隠されたマナの芽を出した杖が付け加えられている。
尚又香壇も聖所から至聖所へと移されているのです。(検証ヘブル9:3〜4参照)

◆隠された箱と、その中の三種の秘められた霊的意味を知って経験することを神は示唆しておられる様です。

●参考として、(A)金のつぼの中のマナについて黙示録三章二十節に「我、戸の外に立ちて叩く、人もしその声を聞きて戸を開かば、我その中に入り彼と共に食せん」と。又二章十三節には勝利を得る者には「隠されたマナを與える」と荒野で全ての人が食した公のマナと。
位置的に幕に入り。聖所に進み。更に至聖所の中に進み。
箱の中の金のつぼの中にあるマナにあずかりたいものです。

●参考(B)五月になると日本では皇室で様々な礼が行われますが、事の正否は別として神社の形態と諸々の事項が旧約聖書に見られる極彩色の絵巻を観覧しているようで興味津々と言ったところです。

私はアルファでありオメガである!

今おられ、昔おられ、やがて来ようとしている者、全能者である。(黙示録1:8)
永遠で全能の神は創始の為の<始まり>であり、又その目的達成する為の<終わり>です。
即ち創世記で神はアルファであり、聖書の最終章の黙示録ではオメガです。
神は始められた事はすべてて完成されます。
それは黙示録21章6節に又「そして私に言われた。事は成就した私はアルファでありオメガである。初めであり終わりである。」
聖書の一頁の始めの言葉はわずか十六文字で天と地の創造の記録を見る。次の二節には矢張り十六の文字で驚くべき隠された如く記されている。
「地は形無く、空しく、闇が淵の表にあり」と之は一体何を意味しているのか、更に三節には「光あれ」と言われた。
すると光があった。・・・神はその光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。夕となり朝となった。第一日である。
地に於ける相対の第一歩を観せられる。

人の住む地では光(太陽)を中心に自転しながら回転している。
暗闇から光が射し、朝から始まるのが古今東西、自然現象として捉えているが。
創世記、創造週では逆となっている。即ち「夕となり、朝となった」一章の五節〜三一節まで、これが天地創造の由来である、と記されている。

しかし聖書の最後の書、黙示録その最終章21章22章の結論とも言えるところには「夜はもはや無く、灯火の光も太陽の光も要らない」と驚くべきことが記されている。
更に又「都は日や月がそれを照らす必要がない」と21章23節は記している。

◆人祖アダムの系図(創世記5:1〜32)
神が人を創造された時、神に型取って造り、彼らを男と女とに創造された。アダムは百三十歳になって、自分に型取り、自分の形のような男の子を生み、その名をセツと名付けた。アダムがセツを生んだ後、生きた年は八百年であって・・・アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。
そして彼は死んだ。以下セツ、エノス、カイナン、マハラレル、ヤレド、エノク、メトセラ、レメク、迄の八人。エノクの例外を除いて生んだ。
死んだ。と列記している。
その例外のエノクは三百六十五歳の時、神と共に歩み神が取られたので、居なくなった。注:365の数字と死を経ないで天に移されたの意。尚又、メトセラは人類史上で最高齢の969才であった。
そして九代目レメクはノアを生んで七百七十歳で死んだ。

◆イエス・キリストの系図
新約聖書の最初の頁を完読すると実に奥深い記述が十七節に亘って画かれているのに気づかされる。その一つだけ記すと四十二代に亘り父だけの名が記され、将又<死の記述がない>。
旧約のアダムの系図との相違に気付かされる。
アブラハムから起算して四十二代目のイエス・キリストの誕生〜十字架〜復活〜昇天〜その霊。から語られる命の言葉。
十字架の死によって勾留されない命の主。故に死から復活された。

◆全聖書最後のページ
新約聖書の最後の黙示録最終章。「夜はもはや無い。あかりも太陽の光もいらない」。と22章5節は言っている。同時に暗闇の元祖の終焉を告げている。
「悪魔でありサタンである龍。かの年を経た蛇を捕えて千年の間つなぎおき、そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の間が終わるまで諸国民を惑わすことが無いようにしておいた」。と20章2節に言う。
又、救われた人には「み座から大きな声が叫ぶのを聞いた。・・・人の目から涙を全く拭い取ってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったからである。」と21章3〜4節にある。
更に続いて「見よ、私はすべてのものを新たにする」。と聖書の結語として万物の復興とエデンに最初におかれた人の状態に回復する神のことばが詰め込まれた宝石箱のようです。

◆暗闇の源。なる罪は死をもたらし
光の源なる神は命を生み出し、真理の言葉なる命の種は成長し、円熟し、収穫する。これが神の定め也。

性善説・性悪説?

ゴーギャンの3つの群像の真ん中の人たちが提示してる疑問。
”人は何物なのか”
”私は誰なのか?”と

古今東西の賢人は人は生まれながらその性質は善であると言い。
いや悪であるという。未だに結論に至っていない。
故に人は元来盲目である。従って人を創造した神を知らず。不朽の命も知らず。尚又、自分自身をも知らない。
「人間この未知なるもの」とアレキシス・カレルは言った。
又、芥川龍之介の遺書に「人生は死に至る戦いなること忘るべからず」と語りかける。
尚又、明治後期旧制一高の有能な学生であった藤村操は日光華厳の滝へ投身自殺したという悲愴な最後を遂げた話は有名だ。

その訳は”万有の真相は唯一言にして曰く「不可解」我この恨みを抱いて煩悶終に死を決するに至る!”と。

◆ボーダーレス時代(ぬるま湯の中の蛙の生涯)
20世紀末に言われだした、すべてのもの、境界が曖昧になり遂にその線が消失した時代となった。
即ち矛(ほこ)と盾(たて)のように、神対サタン、善と悪、光と影、愛と憎しみ、生と死、真実と虚偽、主観と客観、見えるものと見えないもの等々枚挙にいとまない。

即ちこれらの矛盾、対立、相対性の源は天に発し聖書に見出す。
イザヤ書14章12〜15節とエゼキエル書28章15〜19節参照。

◆サタンの戦略
地上での起源はエデンのもう1本の善・悪・知識の木である。この木こそ悪魔の傑作。善の中に悪を包み込み、その上知識を塗り込んだ最先端の代物なのです。
これこそこの世に様々な災いをもたらす源といえる。欲望に惹かれそそのかされて誘惑に陥るのです。
それは際限の無いグルメ志向、性的誘惑、限りなき名誉、金銭欲、更に薬物やギャンブルに依存する。
「人はそれぞれ自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望は孕んで罪を生み、罪が熟して死を生みます。ヤコブ1:14-15」
最近TBSの報道特集で幼児からゲーム機が手放せなくなり依存症に成った結果、脳の前頭葉や扁頭体に異常を来たした若者を報じていた。

◆あなたはどこに居るのか?(創世記3:9)
日の涼しい風の吹く頃。園の中に神の歩まれる足音を聞いた。そこで人とその妻とは主なる神の顔を避けてその木の間に身を隠した(創3:8)。
主なる神は人に呼びかけて言われた!
「あなたはどこに居るのか?」人はサタンの所有となってしまった故に方向を失った船のように人生の荒海を漂流し行き先を見失った。
人は毎日寝て、起き、食べ飲みし、毎日忙しく仂き、どこへ行こうとしているのか?狭い舟の中では自由も奪われ何か得体の知れない糸に操られるかのように生老病死の規定のコースを今日も歩んでいる。
それは1月に書いた”ぬるま湯の中の蛙”に酷似している。

◆逃れの町々が備えられている(民数記35章6〜15)参照
急いで走らねばならない、あなたは逃げる時間がなくなる。さもないと報復者が来る。
又、荒野で火の蛇に噛まれた人々に対してモーセは青銅の蛇を造り、それを棹の上に掛けた。
すべて蛇に噛まれた者はそれを仰いで見て生きた、と民数記21章に記している。
附記、国境無き医師団のシンボルマークにもなっている。

「うそ」は「えそ」のように拡がった!

◆死と命の原点とその流れ
神の言葉「聖書」は旧約と新約から成り、膨大な一言一句が永遠に不朽の命の流れとなっている。
それは創世の時、エデンの園から一本の川ピソンの流れのように地図上では消えているが聖書の中に実は流れている。

それはちょうど人体を流れる血液やリンパの流れのように、又神経(神の通る道)が網の目のように張り巡らされて全身を統御しているのに酷似している。
その川には金、真珠、しまめのうがあり。創世記2:11〜12

イエスも商人が高価な真珠一つを見つけると持ち物を全部売り払い、それを買ったと語っている。マタイ13:45

ところがやはり地図上では見当たらない、もう一本の川ギホンも流れていた。(創世記2:13)
ちなみに四本の流れ(創世記2:10)の残る二本は現存するチグリス川とユーフラテスである。
聖書の中では二本の木となってその「間」に「人」を置いた。
と二章八節に記してある。

◆「人」「間」の中にも二本の木がある。
それは命の木(不朽)と善悪知識の木で、人は常にこの間に立ち選択、自由に価値判断し決定し行動するものとなった。
この選択の自由にこそ神が人に与えた生と死を決定する原点です。
現代も善と悪が混在し、その上知識が増し加わって(ダニエル12:4)AI時代到来と共にその価値基準を確立しない限り選択を誤る恐れが潜んでいる。

神は、人に命じて言われた。
「あなたは園のどの木からでも自由に食べて良い、ただし善悪知識からではない。それから食べる時あなたは必ず死ぬ」(創12:17)と言われた。
しばらくしてサタン(悪魔)の使い蛇がやってきて女に言った。
彼はもう一本の木の上から甘い言葉を投げかけた。
「あなたは必ず死ぬことはありません。むしろそれを食べると目が開かれ神のように善と悪とを知るようになる。」
この相反する言葉の間に立たされた女(エバ)は、その木を見ると(視覚)目に麗しく、賢くなるには好ましい(価値判断)と思われたので、その実を取って食べた。(意思決定〜味覚)又共にいた夫(アダム)にも与えたので彼も食べた。(創世記3:1〜7)
※人は眼から60%の情報が入力する。

斯くしてサタン→蛇→女→男の経路で、人の中に入り込み鬼の住まい<魂>と成った。

◆血が叫ぶ(創世記4:3〜9)
蛇によって女エバの中に注入された死の毒素は男アダムに拡がり、更にその長男カインへと波及し人類初の尊属殺人事件と成って現れた。
神はカインに言われた「あなたの弟アベルはどこにいるのか?」
彼は知りません!と<うそ>を言い、私は弟の番人でしょうか?と答えた。
そこで神は言われた。弟の声が土の中から叫んでいる、と創世記4:10節は記している。斯くして”うそ”は”えそ”のように拡がり「欲がはらんで罪を生み出す」(ヤコブ1:4)
「このようにして一人の人に依って罪がこの世に入り、罪によって死が入ってきたように死が全人類に入り込んだのである」(ローマ5:12)

斯くして地球上の全ての生き物、人種、時代を超えて現代に及び最も忌み嫌われる死が普辺化した。この現実は避けることはできない。

日本には古代から特有の文化の中、伝統があり、二月に入ると節分には”鬼は外、福は内”と言って豆まきの風習が有り、その原型と言える。
その他、人の体や家の中から厄除けや厄払いは普辺化し、数々の伝説で暗にそれらに支配されている。(童話やわらべうたにも数多く親しまれる)
この最も忌むべき死をもたらす「罪の性質」は生ける人を徐々に侵食し病や老化させ、その寿命は120年が限界であると創世記6章14節にその訳を記している。

◆一匹の蛙
古来多くの人々は死の素因を知らず、ただ漠然と受け容れざるを得ない時を経てきた!
それは一匹のカエルがぬるま湯に入れられ。徐々に更に少しずつ、その温度を上げていき、その環境が自然であるかのように錯覚させ、遂に熱い温度の中で死んでいくのに似ている。
尚又、一本の西洋梨の木がある家に移り住んだ時、春になると白い花が咲きやがて実が次第に大きくなり、熟したころポトリポトリと殆ど落ちてしまった。
その一つを開いてみると腐敗して食べることができなかったことを思い出す。
その訳は、開いてみてハッキリした。腐りかけた実の中から虫が出てきたのです。

しかしこの虫は何時入り込んだのか不思議に思い調べてみると、春の開花時に花の芯に卵を産み付けた故を始めて知り驚いた。
他の果実類も開花の時期に薬剤散布をするのを納得できた。
これら動植物の生態や習性を観察すると、その原理は人の中に何時か知らない間に”死の毒”を注入したサタンの、原点に達し始めて納得できる。

◆神は人とその妻のために皮の覆いを造って彼らに着せられたと(創世記3:21節)に記されている。
世界中の女性が頭を覆う装飾化された種々な(かぶりもの)。それは花嫁が必ずかぶる”角隠し”が明確に表している。
訳は人の中にツノがある鬼が宿っている故、隠さなければならない。
その他カトリックのシスター、イスラムの女性、又五月になると即位の様々な儀式の中に見られるであろう一つに皇族の女性のかぶりものに注視してほしい。
いずれも神聖な場に出る時必須条件として、多くの国の女性に汎化している現実の原点は、エデンに於ける女の故であることは確かなようだ。

この人の体に内住する鬼。
魂にひそむ五感に訴える甘い声に誘惑されないために、人の三部分で最も中心になる霊の声に傾聴しなければ、現代社会を無事に生き続けるのは困難な社会となってきた。

「わたしの言を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得る、又裁かれることなく命(ゾーエ)へと移っている。」ヨハネ5:24〜25

水と血が叫ぶ!!

見よ、私が手にある杖でナイルの水を打つと、それは血に変わる(出エジプト記7:17)

12月に入ると一斉にクリスマスムードで世は満たされる。
ローマの統治下ヘロデ王の時代。
ユダヤのベツレヘムでイエスが誕生のとき。お祝いムードとは全く真逆の事件が起きていた。
それは2才以下の男の子をひとり残らず殺させた故です。(マタイ2:16)

「その訳は」異教の三人の学者が星に導かれて王を訪ねて言った。
ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?

これを聞いたヘロデ王は不安を抱いて言った。
そこで、祭司長や学者たちを集めてメシヤがどこに生まれたかを調べさせた結果ユダヤの地ベツレヘムであることを確かめた。

一方、天の使いが夢でヨセフに現れて言った。
「起きて子供と母親を連れてエジプトへ逃げなさい。ヘロデがこの子を探して殺そうとしている」(マタイ2:13〜15)
ヨセフは起きて夜のうちに幼子と、その母を連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。(マタイ12:13〜15)

◆ところが、イエス誕生の千五百年も前にも酷似した事件がエジプトでも起きていたが、世間ではあまり知られていない。

それは当時の王パロは「ヘブルの女に分娩させる時、産み台の上を見て男の子であれば殺さなければならない、しかし女の子であれば生かしておくように」と助産婦に命じた。(出エジプト記1:15〜16)

その時、神は救いを備えられました。
女は身ごもって男の子を生んだが、その麗しいのを見て、三月の間隠していた。
しかしもう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂を塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中に置いた。

その姉は遠く離れて立ち、その子に何が起こるのか知ろうと見ていた。

するとパロの娘が水浴びしようと川に降りてきた。
彼女は葦の中にかごの有るのを見て仕女をやり、それを取ってこさせ空けてみると子供がいた。
見よ!幼子は泣いていた。
彼女は可哀想に思って言った
「これはヘブル人の赤ちゃんです」
彼女はその子を引き取りその名をモーセと名付けて言った。
「水の中から私が引き出したからと」(その後王の娘に養育され帝王学を修めた)

時は経ちモーセが八十才の時、数奇な運命を経た彼を神は召され圧制下、奴隷のように酷使されてきた。
そのイスラエルの民200万人にも及ぶ脱出記録が克名に全章に亘り記されている。

それらの中心とも言える「過越の祭り」の原点が何であるのかが、出エジプト記12章2節にあった。
”この月をあなたの初めの月とし、これを年の「正月」としなさい”との言葉に当時20才であった私は惹きつけられたことを思い出す。

日本人古来の慣習である「年越〜正月元旦」の神事の原点がここにあるのではないかと・・・以来日本の神社の諸々の形態を、幕屋の諸事が驚くほど酷似しているのを見せられ今日に至っている。
「過越」はそれらの芯とも言える。

◆過越:神の裁きが人の住む家を通り過ぎることを意味する。神はその血を見て過越す。(出エジプト12,13)
◆その日:正月十日に家ごとに子羊を取り四日間出発の準備をし、即ち14日に子羊は殺された。
◆その血:家の門柱と、かもいに子羊の血をヒソプに浸して塗られた(日本ではヒソプの代わりに松飾り)
◆その肉:火で焼いて食べ、パン種の無いパンと苦菜と共に食べなければならない。(お餅や煮締の携行食)

これらの項目を家ごとに慌しく出発の準備をし、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持ち云々(出エジプトより12:11)

以上のような点を総合して考察する時、大晦日の慌ただしい切迫感や正月元旦を迎へる日本古来の慣習とが似通っていて驚かされる。

◆尚又「屠蘇」について
<屠>はほふるの意で動物を屠殺するに用いる。
<蘇>は草かんむりに魚と禾とから成っており、魚は死に満ちたこの世に生まれ、塩水(罪)に浸透されない復活のキリストを表しており。
禾は大麦パンを表している。
従って十字架の死と復活を表徴している。
その辺の語源はヨハネ福音書21章に詳細が見られる。
その9節に陸に上って見ると、炭火がおこしてあり、その上にパンと魚が乗せてあり、と9節に見られる。

◆人の誕生と死
例外なく人は皆、母の胎(子宮)から破水して生まれる。しかし女はそれ以前初潮から閉経まで生理的な現象として排卵〜神秘的な受胎をいやおうなしに経験する。
毎月血を見ない訳にはいかない。

男の汗と同じく女は陣痛の苦しみが運命づけられている。(創世記3章16,19)
神の子が人の子として33年半歩まれたイエスは受難の末、何の罪も見いだせなかったにもかかわらず十字架で処刑された時。
ローマの兵隊により槍で脇腹を刺した!

すると血と水が流れたとヨハネ19:34に記している。
その時昼の12時頃、全地は暗くなり、三時まで続いた。
太陽は暗くなり、光を失った。
又、神殿の垂れ幕が真ん中から避けた。
とルカの福音書22:45に記している。

”見よ。世の罪を取除く神の小羊だ”ヨハネ1:29

死と命のボーダーライン~死海~

天からの露がガリラヤ湖を経てヨルダンの川となり海面下を320km流れ下りついに死海でその流れは止まる。
それは別名”塩の海”南北75km、東西15kmの巨大な湖である。

その特徴は地中海水面より380メートルも低い水面。
尚又、塩分濃度が通常の海水より約6倍も高いという。
それに流れ下った莫大な水は排水路がなく行き止まりなのに溢れもしなければ減りもしない。
一定の水量を保って現在に至っている実に不思議な湖である。

更にこの海の南端に小さなコブ状の突起した部分があり
その昔「神の目」に腐敗堕落したソドムとゴモラの街。

「人の目」には繁栄していたダウンタウンは水ではなく
天からの火によって焼き滅ぼされ、
この湖底に水没し、しかも塩漬けになっていることが
創世記18~19章に詳しく記載されている。

なんだかそこに住んでいた人たちの叫び声が
耳を澄ますと聞こえてくるようだ。(創世記19:13~14)

それは今、世界の国々は経済成長著しく高層ビルが乱立し、
ネオン輝く街々。
国も民も激しい競争の潮流の中の守銭奴のように動き廻り、
スポーツやステージ、AI時代など、傾倒している様は正にソドムとゴモラと相似形を呈していると思えてならない。

この町の住人であったロトの家族(アブラハムの甥と妻と娘たち)が危機一髪救出されるさまが詳細に記されている。
その19章17節に”後ろを振り返ってはならない、低地に立ち止まってはならない、山に逃れなさい。
そうしなければあなたは滅びます”と。

しかし、ロトの妻は後ろを振り返ったので、塩の柱となった。
と26節は記している。

死海の南端の中腹にそれらしき人の姿「塩柱」が見受けられる。

更に死海の東側には岩塩の山が連なり、
その中の洞窟から「死海写本」(旧約聖書)が大量に羊飼いの少年により発見されたことは周知の通りである。

ヨルダン川と死海が古代の秘められた数々の不思議はユーラシア大陸、いや地球最大の霊的スポットと言える。

更に又、観光スポットとしても有名で死海では水面上に観光客が浮遊体験できることが人気だ!

これこそ人が二本の手と足を動かすことなく水の上に浮遊できることは、
即ち人の力で水をかくことも足で立場がない状態。
水に全信頼をゆだねた状態。人の頭脳や努力を放棄した姿です。

これに関連して又、有名なノアの大洪水の記録が想起される。

創世記6:11~13にソドム・ゴモラと同じように神は警告されている。
その結果40日40夜雨が降り続き水が全土を覆い
ノアによって建造された方舟に八人の家族とともにその中に入って救われた。
後アララテ山上に漂着した様が記されている。

「箱舟は水が増したので浮上した」(創世記7:17)

これらは何を物語り、何を言わんとしているのか?

イエスは言われた。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる」とヨハネ11:25。

地球上最大の霊的スポット!!ヨルダン川へ

頭に注がれた尊い油がアロンのヒゲに下り、
衣の裾に下るようだ。

それは<ヘルモンの露が>シオンの山々に下ってくる。(詩篇133編)

レバノン山脈の最高峰ヘルモンの山々。
標高2850mから流れ下った水はテベリヤの海(別名ガリラヤ湖)に流れ落ちる。
南北20km、東西12km、
この地方で豊富な漁場として多くの人々の糧を供給している。
それに地中海面より200mあまり低いと言う。

西岸にある平地は新約聖書に出てくるガリラヤ、ベッサイダ、
カナ、カペナウム、ナザレの里等々。

少年時代を過ごされたイエスは、
やがてその地ヨルダン川へと来られた。(マタイ3:13)

尚又、この地を生活の場、漁場としていた
ペテロ、ヨハネ、反逆したユダ以外の弟子たちも
召命を受けて網を捨てイエスに従った発祥の地でもある。

後程弟子の三人を連れてヘルモンの麓で変貌され、
栄光の姿になられたのもマタイの17章1〜2節に記されている。

その落差の激しいガリラヤ湖の水はヨルダン川へと落下し、
その豊富な水量は流域住民の命の水として潤している。

又、この川にまつわる数々のエピソードは興味深々、意味深遠である。

・将軍ナアマンのらい病が七回身を沈める事によって癒やされた

・預言者の学校の若者たちが斧で木を切っていたとき、
その斧の頭が水の中に落ちてしまい、
それを預言者は一本の小枝を投じ斧の頭を浮き上がらせた

・バプテスマのヨハネは多くの人々をこの川で洗礼をした。(バプテスマ)(ヨハネ1:23〜28)

・イエスもこの川でバプテスマされた(ヨハネ1:29〜34)

・地球上最大の霊的スポットヨルダン川

・エジプトからイスラエルの民が脱出したとき
紅海の水が割れたように(エジプト14:21〜22)、
このヨルダン川でも上から流れ下る水は止どまって、うず高く立ち。
死海へ流れる水は全くせき止められたのでイスラエルの十二部族は御興と共に
カナンの地に渡御した。(ヨシュア記3:14〜17)

この海抜下を流れ下るヨルダン川。
人々の乾きを満たし、数々のエピソードを歴史に刻みながら
320kmを流れ下り、
さらに最も不思議な「死海」へと流れ落ちる。
正にこれこそイエスの人生を表徴している「葬りと発芽」(死と復活)をすべての人々に見える形で提示しています。

・一粒の麦として地に落ちて死ななければ一粒のままである。
だが死ねば多くの実を結ぶ。
自分の命(生来の命)を愛するものはそれを失うが自分の命(魂の命)を憎むものはそれを保って永遠の命に至る(ヨハネ12:24)

神の子イエスは人の姿でヘルモンの露のように下り落ち十字架上で人々の贖罪を果たし、
三日目に復活し信ずる人々を永遠の救いへともたらします。

昇る太陽が高いところから私達を訪れ、
暗闇の中に、又死の影の谷に坐っている者に輝き、私達の足を平安への道へと導きます。(ルカ1:78〜79)

・見えるものは過ぎ去るが見えないものは永遠に存在する(IIコリント4:18)。
影から光の源へ。

次回:死海の秘められた数々のナゾ

サヨナラだけが人生だ!!

人はどこから来て、人はどこへ行くのか?
ゴーギャンの有名な三人の人物群像が語り出している疑問。

これは人種や国、宗教を問わず、すべての人の疑問です。

旧約聖書には、これらの問に対してヘブル人(ユダヤ民族・神の選民)をモデルとし、
まるで絵画のように、史実として描かれています。

それは、カルデヤ【現在のイラク(メソポタミヤの地)】
ウルの地からチグリスとユーフラテスの二つの大河を渡り、
42箇所の寄留地を経て、
更に最後の川ヨルダンを渡って神の示された「乳と蜜の流れる良き地・カナン(現在のイスラエル)」に入った行程です。

これは正に現代社会の人生遍路の行程を描いているかのようです。

二つの大きな川・砂漠・荒地、先住民との争いなど、
今の社会にも通じる様々な行く道を妨げる障害、何度も十字路(岐路)に。
又、壁に立ち塞がれ。

どの道に進むべきか。

様々な挫折や苦難を経験しつつ歩む様は正に昔も今も変わらないようです。

そこで人は・・・・
その都度選択しなければならない・・・・

何を基準にして・・・
何を根拠にして・・・
何をモデルにして・・・

どこへ目指すのか【一過性の影】か、それとも【永遠】を決定しなければならない。

大正末期から昭和の初期に人生論。
花やかなりし頃、井伏鱒二の詠んだ、櫻花らんまんの一夜にして嵐によって散る様を描いた有名な詩。

”花に嵐のたとえもあるぞ
サヨナラだけが人生だ!”

と。

既に人々の心の中に神は永遠への思いを植えられたと伝道の書に記しています。

尚又、「彼は傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消さない」と。